2.郷原古統と台湾人女性「日本画家」台展・府展の東洋画部に第三高女出身者が多いのは、同校の書及び図画教諭だった― 427 ―の血縁・地縁から西洋画を選択したと考えられる。日本画家の郷原古統の存在に負うところが大きい(注4)。第三高女は、台湾総督府国語学校(1896年開校、1919年師範学校)に、1897年に設けられた第一附属学校女子文教所を前身とする、女子の中等教育機関であった。1922年の第二次教育令発布により第三高女に改称され日台共学となったが、主には台湾人の子女を対象とした。当時の台湾では、高女は女性が通うことのできる最高の教育機関であり、学力のみならず、高額の学費を支出できる富裕層の中でも女子教育に理解のある開明的(近代的)な家庭出身者が集まっていた。とりわけ第三高女は、台湾でもっとも歴史があり、植民地エリート層の子女が通う有名校であった。そこで、郷原は、授業で水彩画を教え、課外活動で日本画を教えていたと言う(注5)。郷原が第三高女に着任したのは1922年である(台北第二中と台北女子高等学院の教諭も兼務)。以降、1936年に台湾を離れるまで同校で教鞭をとった。この間、台展の創設に尽力し、初回から9回まで東洋画部の審査員を務めている。郷原は学生の育成に積極的で、その下には、第三高女出身の台湾人女性のほか、同校出身の秋岡豊子や益永沙和、台北第一高女出身の四本綾子、台北女子高等学院出身の安東翠や西川和子など日本人女性も集まり、台展・府展に入選している。郷原が、台湾において日本画家(とくに女性)の育成に大きな役割を果たしたこと、台展・府展が郷原と門下生の活躍の場であったことは明らかである。さらに、東洋画部への女性画家の入選が、台湾人、日本人を問わず台展の中後期に多いのも、郷原と無関係ではないだろう。郷原は、1930年に、木下静涯とともに日本画家をあつめて栴檀社を結成している。とくに女性画家の入選者数が増加したのはこの栴檀社結成後である。そして郷原離台後の東洋画部からは、女性画家の入選は急速に減少していくのである。郷原の台展東洋画部における影響力とともに、郷原以降に有力な指導者が出なかったことがうかがわれる。また台湾人女性について言えば、頼明珠が指摘するように、強固な家父長制社会の中で、女性たちが婚姻によって官展という公の場に参加することを断念しなければならなかった情況があり、それが減少傾向に拍車をかけたと考えられる(注6)。実際、二十歳前後で台展に入選していた女性たちは、さらに修練を積み画家として自立する以前に官展から離れており、府展期に入ると世代交代が見られ、未婚であった陳進と結婚後も画家を続けた張李徳和のほ
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