― 429 ―の創設でも、総督府文教局長の石黒英彦が、美術は国民精神の具体的表現であるべきだと語った(注9)。石黒の言う国民精神が美術の何と結びつくのかはあいまいだが、類似の言説は当時の資料に散見される。例えば、塩月桃甫に師事した新井英夫は、日本画と結びつく「国民としての美の理想」を実現した上で台湾の芸術が顕現すべきだと説く(注10)。力説される国民精神は、美術では日本画に帰属させられていた。第三高女の教育方針でも日本画が奨励されている。先述のように、第三高女は台湾人女子教育の伝統校であり、1923年の裕仁皇太子(昭和天皇)の台湾行啓では視察校に選ばれたほど、総督府が重視した学校であった。1933年に刊行された第三高女の『創立満三十年記念誌』は、国民精神の涵養について、「皇室尊崇の観念は国民精神国家観念の根源」で第三高女教育の中心であり、「国語常用及び遵法の精神も国民精神涵養上重要」だと述べ、さらに次のように続ける。皇室の尊崇、日本語の常用、日本国法の遵守とともに、日本画、和歌、民謡、和服等々の国民的趣味を育む必要性が謳われており、そのために「国民精神涵養施設」も設けられた(注11)。この教育方針にそって、第三高女では、まさに植民地女性エリート、より正確には植民地男性エリートにふさわしい良妻賢母の「日本女性」を育成することが目指されたのである。そのため高女生の教育内容は、アカデミックな教科を中心とした男子教育とは異なり、教養・趣味の養成を重視し、スポーツや文化的教養、文学趣味など様々な内容が盛り込まれたもので、それらは課外活動や稽古事など高女生活全般において取り組まれたと言う(注12)。第三高女出身の女性たちが日本画を学んだ背景には、このような女子教育の明快な方針があったのである。つまり、台展・府展の東洋画部へ台湾人女性画家が集中したことは、良妻賢母の「日本女性」を育成することで家庭の中からの同化を目指す政策を色濃く映すものなのである。それは、内地の事情とは異なる(注13)、帝国日本の 国民的趣味は国民精神の基調であるとの見解から、図画は日本画を学習せしめ、和歌の外に要目を設けて古典的民謡をも味はしめ、日本民謡調の歌曲を教授し又音楽会に和装出演せしめて和服の趣味を長じ、雛祭・端午・七夕・神社参拝の如き国民的行事に馴れせしめ、特に昭和三年度より御大典記念として春季の内地修学旅行を創設し、内地の風物人情殊に桜咲く日本の気分を体験せしめる等、諸方面に亘って国民的趣味の培養に苦心を重ねて来たのである。(下線は執筆者による)
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