― 430 ―支配下にある植民地台湾という不均衡な力がはたらく情況で生み出された、特有の現象だったと言える。なお、水彩画家の石川欽一郎が台湾総督府国語学校(師範学校)で教鞭をとり、多くの台湾人男性を洋画家として育てた一方で、女子校へは、郷原のほか、その後任の丸山福太、基隆高女の村上無羅、淡水高女の陳敬輝など日本画家が着任する傾向があった。西洋画家が男子校へ、日本画家が女子校へ赴任する規則があったわけではないが、実態としては以上のような女子教育の方針が考慮されたと推測される。おわりにかえて─陳進の役割最後に、代表的な台湾人女性「日本画家」陳進の、台展・府展東洋画部における役割を考えておきたい。陳進は、1925年に第三高女から女子美へ進学、1929年に卒業した。在学中に始まった台展第1回で入選し注目された。入選作は、和服美人の《姿》と、植物を描いた《けし》〔図3〕と《朝》であり、植物画はともに、庭先に咲いていそうな花を写生し無地の背景に配した作品であった。第1回台展の入選作品中、このような植物画は陳進の2点だけであったが、第2回台展になると、蔡品の《露けき朝》と《蓼》〔図4〕、佐藤敏子の《かんな》、蘇花子の《葡萄》、中村翠谷の《白菊》の5点に増えている。以降、府展の終了まで、無地の背景に植物を描いた単純な構成の作品が出品されつづけ、女性画家の入選が集中した第6〜8回台展で特に目立っている〔図5〕。一方、陳進は、第2回台展以降は女性像の制作に精力を注ぐ。しかし、陳進が描くような人物像は、専門的な日本画学習を前提とするものであり、そうした機会に十分に恵まれなかった画家たち、とりわけ郷原門下の若い女性画家たちには取り組み難い主題であった。むしろ彼女たちにとっては、陳進の《けし》や《朝》こそが台展突破のモデルになったのだと思われる。陳進は、第5回台展までは1点をのぞいて和服美人像を描き〔図6〕、第2回台展以降、特選を重ねている。しかし、第6回台展からは主に中国服の女性像を出品し、1934年には《合奏》(個人蔵)で帝展に初めて入選。台湾人女性として、台湾人「日本画家」として、初の快挙を成しとげる。以降、台展・府展のみならず文展鑑査展、新文展へも出品している。今日、和服美人像については、作品が現存しないこともあり、鏑木清方など師の影響が強い習作という評価が一般的である。確かに、日本人の描くそれとなんら異ならない題材や表現技法は、現在の「地方色」をめぐる活発な議論からすると、日本への同化著しい側面が際立ち、そこに陳進の独自性を探求するこ
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