鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 431 ―とは困難にも見える(注14)。しかし、日本統治下の台湾では、近代化は日本化でもあった(近代日本にとっての近代化が西洋化であったように)。とりわけ第三高女から女子美術学校へ進み、日本で画家として自立することを志した陳進にとって、和服美人像を描くことは、たとえ結果的に同化政策の成功イメージの形成に参与することになっても、それ以前の問題として近代的な自己表現という意味をもっていたと思われる。例えば、第三高女の生徒は、和服を着ることに心配や恥ずかしさと同時に晴れがましい喜びも感じたと言う(注15)。しばしば着物を着用した陳進が、和服美人像を描くことに近代化した自己のアイデンティティを投影したとしても不思議ではない。一方、中国服の女性像も、日本人主催者や審査員が求めた「地方色」の課題に応えつつ、「台湾らしさ」の探求を自身のアイデンティティの探求に重ね合わせていくうえで制作されたものである。1936年の文展鑑査展に入選した《サンティモン社の女》(福岡アジア美術館蔵)〔図7〕はその最たる作品である(注16)。しかし残念なことに、これら陳進の女性像が台湾人女性画家へ直接影響することはなかった。とはいえ、陳進が内地で成功を収めたことは、「台湾画壇のプライドのためにも、本島女流画家としての立場に於いても、女史の涙ぐまし努力は酬いられた」と評価されたように(注17)、「地方展」とも看做された台展・府展、あるいは台湾東洋画壇の自立した立場を、内地に対してアピールすることにはなったはずである。さらに、第6〜8回台展における審査員としての陳進の役割を考えておきたい。当時、新進の「日本画家」だった陳進にとって、審査に参加することは、画家として日本人の審査基準や評価をじかに知る好機であった。実際、審査経験直後に、先の《合奏》は帝展に入選している。一方、20代半ばの台湾人女性審査員としては、陳進が師にあたる年齢と経歴の日本人男性審査員の間で十分に発言できたかどうかは疑わしい。しかし、ちょうど陳進が審査員を務めた時期の台展東洋画部に台湾人も日本人も女性画家の入選が集中したことは、決して看過できない(注18)。すでに見てきたように、そこには第三高女ほかで図画教諭を担当し、台展審査員として影響力をもった郷原の影が見える。だが、郷原が審査にあたった第1〜9回台展の中でも第6〜8回に女性画家の活躍が目覚しいのは何故だろうか。陳進は、確かに新進の台湾人「日本画家」であった。だが、唯一の女性審査員に対する日本人男性審査員の配慮も働いたのではないだろうか。台湾の女性「日本画家」としての一定の重石が、第6〜8回台展東洋画部への女性画家の入選結果に現われたと見ることも可能なように思われる。陳進は、内地に対して台湾画壇をアピールする役割を担い、台展・府展においては、画家として植物画の典型を作りだして続く女性画家たちを励まし、また、審査員とし

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