注⑴「地方展」という認識が当時の資料に散見される。例えば、塩月桃甫は、台展を中央の各展覧会と異なる地方展と述べる(「台湾美術物語」『台湾時報』1933年11月)。しかし同時に、台展は独立したものとも主張している(「第八回台展の前に」『台湾教育』1934年11月)。台展・府展について相反する見方が交錯していたことがわかる。― 432 ―て台湾人女性の視点から女性画家を評価する役割を担っていたと思われる。台展・府展東洋画部への女性画家の集中は、郷原の存在とともに、陳進の存在を抜きにしては有り得なかったことであり、さらにそれは、家庭の中からの同化を女子教育で推し進めた植民地の政治性を映し出す事象でもあった、と言えないだろうか。⑵台湾の女性画家に関する最新の研究書は、頼明珠『流転的符号女性 戦前台湾女性図像芸術』芸術家出版社、2009年である。それでは、台展・府展の台湾人女性を17名とするが、中央研究院歴史語言研究所の台展・府展目録サイト『台湾美術展資料庫』で確認すると19名である。頼明珠論文では、蘇花子と余香が数えられていない。⑶台湾人女性19名中10名、日本人女性約28名中20名の名前が第6〜8回台展の東洋画部に見られる。一方、同回の西洋画部には台湾人女性4名中1名、日本人女性41名中14名の名前しかなく、西洋画部の女性画家は全期間を通して分散している。⑷郷原古統の活動全般については、廖瑾瑗「日本画家郷原古統(1887−1965)の在台絵画活動」『鹿島美術研究』(年報第14号別冊)1997年を参照。⑸頼明珠「女性芸術家的角色定位与社会的限制 談一九三〇・四〇年代樹林黄氏姉妹的絵画活動」注⑵著書、19−20頁。⑹頼明珠「父権与政権在女性画家作品中的効用 以陳碧女一九四〇年代之創作為例」注⑵著書、60−62頁。なお頼明珠も、女性画家の入選の時期が郷原の第三高女教諭と台展審査員の期間(第1〜9回)に重なることに着目し、郷原離台後に指導力のある画家が不在となったことを指摘している。⑺注⑸、37頁。⑻近年、台展・府展入選作の現存確認が進んでいる。最新書に次のものがある。『日治時期台湾官弁美展(1927−1943)図録与論文集』勤宣文教基金会、2010年。⑼石黒英彦「台湾美術展覧会に就いて」『台湾時報』1927年5月。⑽新井英夫「台湾に於ける国民美術の課題」『台湾時報』1937年9月。⑾『創立満三十年記念誌』台北第三高等女学校同窓会学友会編印、1933年、157−158頁。⑿洪郁汝『近代台湾女性史』頸草書房、2001年、167−171頁。⒀小勝禮子「近代日本における女性画家をめぐる制度─戦前・戦後の洋画家を中心に」『奔る女たち』栃木県立美術館、2001年、19頁によると、日本では「日本画が上流家庭の子女の嗜みであり、教養の一つと考えられたが、油絵は男のする事とみなされた」と言う。⒁「地方色」論の限界については、拙稿「『純然たる日本画』─台湾東洋画の場合」『美術フォーラム21』2010年に述べた。⒂注⑿、176頁。⒃拙稿「台湾の女性「日本画家」─陳進筆《サンティモン社の女》をめぐって」『美術史』165、
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