鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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・ 明和8年12月28日「高倉通四条上ル丁 年寄 若冲」(奉行所へ提出の「恐乍口・ 12月30日「左通四町年寄壱人ツヽ正月四日五ツ時西御役所江罷出候様町代より廻り状到来」「四丁年寄 若冲」(若冲を含む四町年寄(注7)に対し、年明けに西町奉行所に出向くよう通知がある。)・1月7日「銀弐両 若冲」(西町奉行所へ納める冥加銀の額についての届け出に・1月8日「年寄 若冲」(東町奉行所与力・加納氏から市場差し止めを申し渡さ― 438 ―・ 明和9年1月4日「四丁共西御役所江罷出候」(前年の指示通り若冲ら西町奉行これらのうち、①および②が本史料についてのこれまでの研究で主に取り上げられているもので、帯屋町の年寄役として奔走する若冲の様子がうかがえる重要なものである。その主たる事柄についてはすでに挙げた先行研究によって紹介されているので、小稿では具体的な記事・事項の抽出を眼目とし、③〜⑨の各史料についても若冲もしくはその生家「桝屋」に関する情報に注目して見てゆくこととする。①明和八年 日次表紙に「明和八卯年十二月二十二日ヨリ同九年辰二月晦日マテ 日次 坤」とある。宇佐美氏が指摘するように、「坤」は「乾」の誤りだろう。最終丁に「錦小路通高倉東南角寛永年より市始ル 市元祖之八代目 桝屋源左衛門」との記入があり、これは若冲の四代後の桝屋当主、すなわち「覚月文冲」であることが辻惟雄氏によって指摘されている(注4)。ここには、若冲の生家「桝屋」も店を構える錦高倉市場の公認をめぐる町方と奉行所とのやり取りを中心とした記録が収められている。書体から一人の人物により纏められたことが明らかだが、同様の写本が別に存在することが報告されており(注5)、本史料が文冲による写しそのものなのか、それがさらに転写されたものであるかは不明である(注6)。さて、すでに報告されているように、若冲の名前が初めて登場するのは明和8年(1771)12月24日、奉行所からの問い合わせに対する町方の返答書においてである。「高倉通四条上ル丁 年寄 若冲」と見えるのがそれで、以下同様に若冲に関する記事について日付と内容を記すと次のようになる。重要性の低い記事の引用は割愛し、適宜( )内に補足・説明を加えた。上書」の署名。)所に出向く。)記載。)れる。)

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