・1月18日「市御免之御願両町年寄五人組罷出」(帯屋町年寄である若冲も御免願・1月23日「両町住居者共之内高倉錦小路上ル丁(=貝屋町)升屋治郎兵衛・・同下ル町(=帯屋町)桝屋源左衛門・・」(御免願書中、市場の差し止めにより渡世に難渋する商人を列記。)「年寄 若冲」(同願書の署名。)・1月15日「五条問屋町より便として・・明石屋半次郎と申仁若冲方江来り」(注8)・1月25日「両町年寄五人組御召ニ而罷出」(町代に?若冲ら召し出される。)・1月29日「東御奉行所ニ冥加銀拾五枚可差上候而申之候」「年寄 若冲」(奉行所に・2月30日「私共町之青物市ニ而冥加銀四丁中ニ而壱ヶ年ニ拾六枚可指上奉」「高倉通四条上ル丁 年寄 若冲」(冥加銀の額は年銀16枚に決まる。事実上の市場再開。)― 439 ―・ 「右等用少シ不足ニ付井筒屋かんより金壱両借用若冲より金壱両借用」(「卯十二月二十三日市之儀始リ諸方之扣覚」に記載。前年来の奉行所との交渉にかかった費用に関する覚書と思われる。)いに出向く。)納める冥加銀の額についてのやりとりを行う。)これらのうち書類の署名については、若冲の署名の脇に「代 彦右衛門」などといった書き入れが見えるので若冲本人ではなく代理署名であったものと考えられるが、およそ3ヶ月間に亘る若冲の具体的な動向をうかがい知ることができる。また、最後の「扣覚」は市場の差し止めから事実上の再開に至るまでの間にかかった諸費用について、各町の負担額を示したものと思われる。「惣高入月銀之割 三百四十八匁一分七リン 但シ四町割」として各町「八拾七匁四厘」の負担とするなど、町単位での負担を原則としているらしく、その際「不足」があったので若冲から「金壱両」を「借用」したとある点は興味を引かれる。若冲はこの時点ですでに家督を次弟宗巌に譲っているから、「壱両」は桝屋ではなく若冲個人のポケットマネーから出たものだろう。年寄役としての立場上積極的な協力が求められたこともあろうが、このことは四町の町方の中でも若冲の金銭的な余裕がかなり抜きん出たものであったということを示している。あとで触れる史料にも記載されるように、文化2年(1805)当時の桝屋の間口は計23間と四町で最も広く、そのような大店の当主を務めた若冲であればそれなりの蓄財があって不思議はないが、すでに畢生の大作《動植綵絵》(宮内庁三の丸尚蔵館)の制作を終え、明和5年(1768)版行の『平安人物志』にその名が記されるまでに著名となったからこそ頼りとされ、またそれに応え得たのだろう。若冲の絵師としての成功は、錦高倉市場の存続を金銭的な面で力強く支えることとなったようだ。
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