・ 明和9年(1772)6月28日「砂川氏内用有之若冲方へ来」(砂川氏は東町奉行所・7月3日「帯屋町 年寄 若冲 代彦右衛門」(市場の差止めに対し奉行所に提出され・7月8日「四町丁共ニ年寄五人組御願罷出候」「当丁 年寄 若冲 代長兵衛」・ 「醫名高ク相聞により四条名を原渕菴と申候此節薬貰ニ心安ク相成此仁ハ本江戸住居す当地江引越此節四条高くら西江入所ニ居被申候心安ク相成候ゆへ右市場御指留之義茂咄シ対ニ拙者若冲叟当時町年寄役預リ居候時・・此市相止ミ切ニ相成り候ハ末代迄も申出候義□数千人之人々此市相止ミ候ハ難義仕候義何とも歎キ致儀と四条江往心安ニ咄仕候」(若冲、近所に住む医者の「原渕菴」に市場の一件を話す。日付は不明だが、7月のことか。)・7月23日「高倉通錦下ル町 年寄 若冲 代伊兵衛」(帯屋町・貝屋町の二町で奉行所・8月19日「中印様大坂ニ御下被成御□ニ付上屋敷之義ニ付若冲罷下リ候」(若冲、「中印」(=中井清太夫)を訪ね大坂へ行く。)・8月21日「年寄 若冲」(奉行所へ提出の願書に署名。)・8月25日「若冲平ラニ成是ハ万一市之義願不叶不申候ハヽ関東江致下向百姓方共御願申上へく存念所年寄致替リ申候」(若冲、年寄役を三右衛門に交代し「平ラ」の身になることとし、奉行所に認められる。)・9月8日「若冲壬生へ急用ニ付罷越」・ 10月6日「東九条村庄屋 新右衛門 同 侍兵衛 御霊 同 安左衛門 右弐ケ村茂加― 440 ―②明和九年 日次表紙に「明和九辰年六月十日ヨリ安永三午九月三十日マテ 日次 坤」とある。この表題からも明らかだが、形状・内容とも①と同様のものである。筆者も同じだろう。最終丁に①とほぼ同一の「錦小路高倉南東角當御市寛永年中始ル 市元祖之八代目 桝屋源左衛門」という書き入れが見える。ここには、一度は再開した市場が明和9年7月3日に再び差し止められ、もう一度再開するまでの記録が収められている。・ 「三千人余茂難義仕候処ヲ御救ヒ被下候様則三右衛門若冲両人より以起請文御願申候」「両人(三右衛門、若冲)関東江罷下リ御下知可奉仰之存念」(冒頭、市場の差止めとその後の町方の動向に関する記述。)与力の「加納氏一家」。)た「奉指上一札」の署名。) 「壬生村庄屋四郎八殿江若冲三右衛門罷越」(原渕菴から紹介された中井清太夫の助言で、壬生村へ庄屋四郎八を訪ねる。同じく7月のことか。)に提出した届書に署名。)
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