鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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・ 10月7日「寄合但シ上鳥羽東寺廻リ東九条御霊四ケ村外ニ五ケ村寄合五ケ村ハ追訴三ケ村ハ新ニ願」「若冲 伝兵衛 源兵衛 与兵衛」(若冲、壬生村丹波屋での寄合に参加。)・ 11月2日「十弐ケ村寄合町より若冲三右衛門罷越」(若冲、寄合に参加。)・ 11月4日「寄合に若冲罷越ス」・ 11月6日「夜壬生村松村氏江内談之義ニ付若冲三右衛門両人罷越ス」(若冲、壬・ 11月7日「朝右松村氏江両若冲三右衛門か罷越」(若冲、前日訪ねた「松村氏」・ 安永元年(1772)11月19日「壬生村へ三右衛門若冲罷越す」・ 安永2年(1773)1月11日「若冲御礼来」(前日の「大坂より中印様御上京」を・3月25日「中井様御役替リ 若村市左衛門様 若冲参上掛御目市之義御願申上・・右市一件之義者崩れ有之由御咄有之渕菴共内々其席中井様茂御出」(若冲、中印からバトンタッチした「若村市左衛門」に面会。)・4月3日「中井様江戸江差反駕□砌若冲罷越掛御目」(若冲、中印の江戸帰還に・ 安永3年8月27日「当町伊兵衛三右衛門若冲罷越」(「壬生村丹波屋」での寄合に・8月29日「七ヶ村 錦町四丁年寄(史料中では名前は割愛)五條問屋町弐町組年寄共 右之通東御役所赤井越前守様御前江一同ニ被召出」(若冲、四町年寄ほかとともに東町奉行所へ出頭、市場の再開が許される。)・9月2日か「四丁町年寄代三人 伊兵衛 三右衛門 若冲」(祝宴が催されたら・9月29日「桝屋若冲」(四丁町から「七ヶ村庄屋中」へ示された「一札」に署名。)①の史料よりも長く、2年余りに亘る若冲の具体的な動向を知ることができる。市― 441 ―・ 10月9日「右挨拶ニ右東九条村江若冲与兵衛罷越」(若冲、同日の「東九条村よ勢願若冲行」(若冲、村方から奉行所への市場再開の願い出について、東九条村と御霊村の加勢を求めに出向く。)り東御奉行所江願出」に関して東九条村へ出向く。)生村での「談義」に出席。)を再度訪問。)受けて。)際して面会し、「餞別」を渡す。)出席。)しく、出席者および献立を列記。参加者は各村庄屋や町方合わせて40名。)場の再開に向け、若冲が中心的な役割を果たしたことがうかがえる。この史料でとりわけ興味深いのが、すでに宇佐美氏により紹介され、辻氏によって

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