― 442 ―注目されている「関東江罷下リ御下知可奉仰之存念」という記述、つまり若冲がこの市場の一件に関し場合によっては江戸に出向く考えでいたということである。ここで想起されるのが、平賀蕉斎『蕉斎筆記』が伝える類似した記述である。それは、桝屋の株をめぐる騒動が起こったために「三千人」もの人々に迷惑が及ぶ事態となったが―この部分も冒頭の記述と合致する―、若冲が江戸に出て老中に直訴したことにより事が収まったというもの。これは松本奉時(?〜1800)からの聞き書きで、寛政5年(1793)の記事である。(注9)両者が別の出来事であった可能性も否定はできないが、蕉斎が奉時から聞き及んだのはまさにこの市場の公認をめぐる一件そのものであったと考えて良いのではないだろうか。両者には相違点も多いが、大筋で一致した記述を見ることは辻氏も認めるところである。相違点については、後者があくまで第三者を通じた聞き書きであることや、すでに市場の一件が収まってから20年が経過していることを考えれば有り得ることだろう。あるいは、市場の再開後示された「一札」において、事の経緯について「他言」を禁じていることも関係しているのかもしれない。特に、市場差し止めとなった要因をあくまで自分の責任としているところなどは、晴れて営業を再開し、商売を続ける生家へ万が一にも迷惑がかかることを考慮してのことであり、さらに言えば、絵事にふけって家業から退いたことへの自戒の念を込めたと考えるのは穿ちすぎだろうか。いずれにしても、両者が同一の出来事を記述していると解釈することは可能と考える。医者の原渕菴から「江戸表ニ中印と申仁四条中好一家同前之間柄ニ有之か幸此節上方為御用」と紹介された中印こと中井清太夫に面会するため大坂へ下るなど、この時期の若冲はあわただしい。清太夫のアドバイスによって若冲と三右衛門は壬生村庄屋四郎八を訪ね、その後も「又々壬生村に罷越」などと記述されるように壬生村へは何度も出向いている。なお、中井清太夫について宇佐美氏は不詳とするが、この人物は甲斐甲府陣屋などの代官として活躍した人物である。天明の飢饉に際してジャガイモの普及に尽くし、また富士川沿いの村落に水路を開いて水害を防ぐなどして、農民にその功を称えられて生祠が建てられている。清太夫が市場の一件に関して一肌脱いだのも、そのような彼の義侠心のなせる業だったのだろう。(注10)ところで、安永2年(1773)後半からの約1年間は若冲に関する記事が見えない。この間、若冲は安永2年夏に萬福寺第20代住持・伯珣照浩(1695〜1776)のもとを訪れ、道号と僧衣を授かっている。同年10月まではいまだ奉行所・村方との間でやり取りが行われているのだが、「平ラ」の身である若冲は書類に署名をすることもなくな
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