った。清太夫が4月に江戸へ帰還したのを一つの区切りとして、市場再開へ向けての若冲自身の活動に余裕が出てきたことが、この時期に伯珣のもとを訪れた理由だと考えられる。③青物市場用留、御公用并入札掛且店方且諸控留表紙に「文政弐己卯年八月五日辰 青物市場用留 御公用并入札掛且店方且諸控留伊藤氏」とある。冒頭、文政2年(1819)8月6日に町方が西町奉行所に召し出された旨が記され、その後①、②同様「御請書」や「乍恐口上書」などの記録類が続く。「此節諸商売仲間返々御怠金」が原因で、錦高倉市場はまたしても差し止めの危機にあったようだ。しかし、これは奉行所との数度のやり取りを経て同月中に解決されたらしい。これに続き、主に奉行所の入用に対する桝屋からの入札控えが書き留められている。若冲没後の記録ではあるが、桝屋が行っていた商売の具体的な中身がうかがわれる点で興味深い。 御入札 一 梅 壱斗ニ付 代四匁三分(注11) 右之通相違無謹候申上 文政三年辰五月十三日とあるのを手始めに、同様の形式で様々な野菜類の入札控えが記録されている。「真桑瓜」や「西瓜」など各種瓜類のほか、「御漬梅」のような加工品も扱っていたらしい。基本的には奉行所の日常的な入用に対する入札が多いようだが、文政8年(1825)8月10日には「松平肥後守様御上京ニ付」き「御料理青物」の入札を行っている。この入札では、「一 大根 拾本ニ付 代銀 上八分 中五分」をはじめとして、ほかに、蕪・木芽・蓮根・獨活(ウド)・山葵・壬生菜・百合根・松茸・里芋・銀杏・芹・椎茸・木耳(キクラゲ)・干瓢・紫蕨(ワラビの一種)などといった野菜や加工品の名が見える。このほか、弘化2年(1845)には「御所御用ニ付巳年より五ヶ年」分の青物について入札を行っている。この時には、瓜類だけで1年あたり1万本を超える入用があり、ざっと計算すると5年分で180両を超える仕事となる。若冲存命中の桝屋の入札記録はないが、取り扱っていた青物の種類が具体的に分かり、また奉行所も得意先であったらしいことや、大名の上京に伴う仕事、御所の御用を務めるなどしたことが分錦小路高倉 桝屋源左衛門(判)― 443 ―
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