― 444 ―かる点は興味深い。④錦小路高倉市場四町名印鑑表紙に「文化二年丑二月十八日改 錦小路高倉市場四町印鑑 町内控」、また見開き右に「間口定印鑑 文化二年丑二月改」とある。以下、四町にある店の間口と屋号、印鑑が列記される。当然のことながら、この史料ではそれぞれ実際の印が直接捺されている。桝屋の部分を見ると、「二十一間 桝屋源左衛門(印)」「弐間 錦通東入町桝屋源左衛門(印)」とあるので、合計23間であったことが分かる。他の多くの店の間口が2、3間であり、最大でも18間なので、文化2年(1805)当時において桝屋は四町中でも最も大きな間口を持った店であったことが分かる。本史料の末尾には「右之通七村江印形帳面差し出申候 丑二月改」の書入れがある。⑤冥加銀勘定表紙に「享和二年戌十二月 帯屋町 冥加銀勘定 年寄■」とある(■は塗潰されている)。冒頭に「七ヶ村扇子料 雛形」として、町方から村方へ差し出す「扇子料」の封の仕方について、表裏を図示して示している。安永3年の市場の再開に当たっては、村方からの協力によるところが大きかったから、奉行所への冥加銀とともに村方への定期的な付け届けがあったのだろう。表書きには、「御酒料 高倉錦商人中/町中」とある。これに続き、享和2年(1802)以降の冥加銀控えが記される。⑥市場掛り之控表紙に「享和二年戌正月 市掛り之控 帯屋町 年寄伊右衛門」とある。冒頭、東町奉行所への冥加銀上納に関して細かい規定が記されており、例年12月13日に「銀拾八枚」を上納すること、10枚と8枚に分けて包むこと、などとしている。そのほか、毎年正月9日に役人へ年頭御礼を差し上げることなど種々の定書きがみえる。これも享和2年以降の記録である。⑦日並帳壱番表紙に「文久三亥七月吉日 日並帳 壱番」とある。文久3年(1863)以降の記録類で、複数見られる印から「銀貸会所」の日々の記録であるらしい。桝屋に関わる記録ではないようだが、同年8月27日の記事として「松平肥後守(松平容保)殿□□浪
元のページ ../index.html#454