鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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3.壬生寺の狂言面について最後に、文中で触れた壬生寺の狂言面〔図1〕について触れておきたい。この狂言面は若冲が奉納したと伝えられるもので、かつて山内長三氏によって紹介されたものである(注13)。― 445 ―士市中昼夜見廻り」や、その他にも「浮浪之者」といった言葉が見え、幕末の緊迫した空気が感じ取られる。⑧青物市場商人顔付寫表紙に「寛政十弐申年十二月 青物市場商人顔付写 伊藤所持」とある。村方・町方の名簿のような体裁になっており、「錦組」のところに「桝源」と見える。若冲の没後間もない時期の記録ではあるが、特に取り上げるべき個所は見当たらない。⑨錦小路高倉市場商人名寄帳 市場一件之寫表紙に「錦小路高倉市場 商人名寄帳 市場一件之写 伊藤源左衛門 同茂右衛門所持」、また見開き左に「安永三年申年八月十九日 錦高倉青物直売御免留書」とある。「茂右衛門」は若冲が桝屋を退いてのち源左衛門から改名した名であるから、若冲を指すものと考えられる(注12)。ただし、この史料には文政12年(1829)の記録もあるので、実際に若冲が所持していたものではなくその写しだろう。①、②に見える安永期の市場公認をめぐる記録の写しが大部分で、特に新しい情報はないようだが、大火後の天明8年(1788)については冥加銀上納が免除されたらしいことが分かる。以上甚だ不十分ではあるが、『京都錦小路青物市場記録』にみえる個別の記事を概観してきた。若冲に関する情報としては①、②が最も豊富かつ具体性に富んでおり、不明な部分が多かった明和末年から安永年間における若冲の動向が知られる点で貴重である。また、他の史料からは桝屋の商売に関する具体的な様子がうかがえるなど、興味深い記事も確認された。筆者の力不足は否めないが、今後詳細に吟味が進めば新たな発見があるかもしれない。すでに見てきたように、若冲は錦高倉市場の再開に向け村方との連携のために奔走する中、明和末年から安永初年にかけて壬生村に頻繁に出向いており、壬生寺への奉納はこうした動きとの関連がうかがわれる。この面裏には、額部分に「奉寄附」、右

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