鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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4.おわりに小稿では、『京都錦小路青物市場記録』の個別記事の抽出とそれに関する若干の考察を行い、またこれと関連付ける形で、従来知られていながらこれまで充分な考察がなされていなかった狂言面についてもその奉納の背景を推定した。『京都錦小路青物市場記録』が若冲の史料として重要な意義を持つことは間違いないが、ここから反動的に過剰なイメージを醸成するのではなく、事実の積み上げによって適切な人物像が形成されることが重要と考える。注⑴宇佐美英機「京都錦高倉青物市場の公認をめぐって」『市と糶』中央印刷出版部 1999⑵奥平俊六「『鶏図 伊藤若冲筆』解説」『新修 茨木市史』第9巻 茨木市史編さん委員会 2008⑶辻惟雄「若冲のワンダーランド」、宇佐美英機「私の伊藤若冲」、狩野博幸「若冲の歌を聴け」― 446 ―縁に「施主 伊藤若仲」、左縁に「錦棚青物市 四丁町中」との朱入刻銘が確認された〔図2、3〕。「町中」という語は⑤にみえる町方から村方への付け届けにも同様の使用例があり、四町全体を意味するものと考えられる。中村保雄氏によれば、壬生寺に蔵される仮面は加持祈祷を目的として寄進されたものが多く、これは「面裏に念仏あるいは法名・俗名を記し、これが舞台で用いられることによって、功徳の果または霊験を受けられるものと信じていたから」という(注14)。とすれば、この狂言面は市場の再開を祈念して、四町を代表する形で若冲が奉納した可能性が高い。「四丁町中」という語が、この奉納が若冲の個人的な振る舞いではないことを物語っている。そして、このことによって狂言面の奉納時期は明和9〜安永3年(1772〜74)頃と想定することができる。いずれも「若冲ワンダーランド」展図録 MIHO MUSEUM 2009所載。⑷注⑶辻氏論文12頁⑸注⑴宇佐美氏論文4頁⑹①、②の史料とも表紙に「源」印が捺されることからすると、これらが桝屋の当主源左衛門の所持したものであった可能性は考えられる。⑺「四町」とは、錦高倉上ル貝屋町、同下ル帯屋町、同東入ル中魚屋町、同西入ル西魚屋町を指す。⑻日付は前後するが、史料の記載順に従った。⑼辻氏も市場一件との関係でこの蕉斎の聞き書きに注目するが「宝暦五年」の記事としている。これは誤記だろう。辻氏前掲論文14頁⑽ただし、清太夫はこの市場の一件に関し町方からかなりの額にのぼる金品の提供を受けている。「菓子箱」入りの「金三千疋」から「金七両弐歩」の「御刀拵料」まで枚挙に暇がない。これ

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