4.石板画制作の動機―ローマ劫掠との関わりから石の絵画の特性を物理的、技法的観点から検証したことにより、セバスティアーノが石の絵画を制作したことの背景に、石の固有色を有色下地として活用するとともに、絵画の耐久性を高める目的があったことが明らかとなった。セバスティアーノが油彩画法を得意とした画家であったことを思い出すならば、彼が絵画制作の際に下地の色を重視し、その効果を得るために有色の石を活用したのは自然のことであったと思われる。一方、この時代に絵画の耐久性がなぜそれほどまでに問題とされたのであろうか。セバスティアーノの石の絵画の制作年に再び立ち返るならば、前述した通り、すべて1527年のローマ劫掠の後、画家が避難先からローマに戻った1529年以降に制作された。この事実は、石の絵画の制作と劫掠との関連を想起させる。そこで以下において、劫掠との関わりから石の絵画制作の動機を考察したい。― 455 ―する耐久性にあることが明らかとなった。この耐久性という性質が当時の人々に評価されていたことを踏まえるならば、セバスティアーノが石を支持体として採用した背景に、こうした評価を意識し、絵画の耐久性を強化する目的があったと考えることができよう。シャステルによれば、皇帝軍の兵士たちは、慢性的な報酬の未払いに不満を募らせていたこともあり、ローマに入るや暴徒と化して、家屋や教会の破壊と略奪を重ね、最後に町に火を放った。このとき、美術作品も被害を免れず、市内では邸宅の壁画が無残に傷つけられ、古代彫刻のコレクションが略奪あるいは破壊された例が報告されている。ヴァチカンでは宮殿内で火が焚かれたことにより、煙で壁画が損傷を受け、ステンドグラスが弾丸を作るために解体された。またドイツ傭兵たちによって壁画が傷つけられ、さらに混乱に乗じてラファエッロのタペストリーが持ち出された。被害16世紀初頭のイタリアでは、ミラノ公国をめぐってフランス王国と神聖ローマ帝国の衝突が繰り返され、各国の同盟関係が頻繁に組み替わる、緊迫した状況が続いていた(注29)。こうした情勢のなか、両国の板挟みとなったメディチ家出身の教皇クレメンス7世は、パヴィアの戦いでフランス軍に大勝した皇帝軍の勢力を恐れ、密かにフランスおよびヴェネツィアと通じて、神聖ローマ帝国に対抗するコニャック同盟を締結した。この教皇の決断と、国内の皇帝派に対する制圧が、やがて各国の兵士からなる皇帝軍の南下を招くこととなり、ついに1527年5月6日、暴徒と化した皇帝軍の兵士たちはローマに侵入し、聖都を破壊した。このとき、サンタンジェロ城に身を隠したクレメンス7世は、指導者の責務を果たすことができず、教皇軍は敗北した。
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