― 456 ―の具体的な状況、とくにタブロー画がどのような被害を受けたのかということについては、シャステル自身が述べるように、資料が残されていないため明らかではない。しかしながら大量の遺産が無残に破壊され、持ち去られたことは、耐久性を備えた美術作品に対する関心と、その需要を生むきっかけとなったにちがいない。劫掠において美術品が受けた被害は、絵画のもちに対する意識と、セバスティアーノ作品の耐久性に対する評価の高まりと無関係ではなかったと思われる。劫掠後に生じたと思われるこうした要求にセバスティアーノが敏感であったのは、彼がこの出来事を直接に体験したことにくわえ、ローマに戻って活動を再開し、惨事の記憶に苛まれながら活動を継続したからであろう。1531年2月にミケランジェロに送られた書簡には、ローマ劫掠を経験した画家の心境が綴られている(注30)。そこには、「私はいまだに正気に戻ることができずにおり、自分が劫掠前のセバスティアーノではないような気がしている」とあり、画家が惨事から4年を経てもなお、その精神的なショックから完全には回復していない状態にあることがうかがえる。このように石の絵画制作の背景に、ローマ劫掠の被害から生じた要求と、それに対する画家の配慮があったとするならば、そのことは、現存するセバスティアーノの石の絵画に2点のクレメンス7世の肖像が含まれていることにも裏付けを得ると思われる。これらの肖像は、前述の通り、教皇が長い髭を生やしていることから、劫掠後の教皇を描いた肖像であると考えられる。教皇の髭に関するザッカーの研究にもとづくシャステルの見解によれば、教皇の髭は伝統的には服喪のしるしであり、クレメンス7世の髭は劫掠の加害者である皇帝派に向けた抗議を意味するものであった(注31)。教皇はその後、1529年に皇帝側と和解し、フィレンツェ包囲を経て、1530年にはボローニャで皇帝の戴冠式を行うが、1528年以降、1534年に没するまでその長い髭を生やし続けた。セバスティアーノからミケランジェロに宛てた1531年7月22日付けの書簡の記述に従えば、石に描いた教皇像の1点が、教皇自身からセバスティアーノに直接依頼された(注32)。教皇がセバスティアーノに注文した肖像画はこれが最初ではなく、劫掠前の1526年頃に、カンヴァスに油彩で描いた肖像(ナポリ、カポディモンテ美術館)をすでに描かせていた。劫掠後にあえて支持体を変えた肖像を描かせたということは、石に描かれた教皇像は、劫掠を機に生じた教皇をめぐる何らかの変化を反映していると思われる。すなわち皇帝軍の侵入で受けた被害と、劫略後の教皇の危機的な立場を考慮に入れるならば、髭のある教皇の姿を描いた石の絵画は、聖都を破壊した国外勢力に対する抗議の表明であり、また劫掠からの克服を目指す教皇の強い意志が反
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