― 463 ―㊷ 唐代四川地方の千手観音龕に見られる浄土往生信仰の要素について研 究 者:早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程 羅 翠 恂研究の前提中国では、紀元一世紀の仏教伝来以降の早い時期から、二臂の聖観音が盛んに信仰されてきた。しかし、唐代も七世紀になると、密教の流行とともに多面多臂など、異形の変化観音への信仰が盛んになる。中でも経典中に最も多くの利益を約束し、その万能性を「千手千眼」という具体的な形で表すことにより人気を博し、特に信仰されたのが千手千眼観世音菩薩(以下千手観音)である。ところで、画像・彫刻ともに中国の千手観音像の最も突出した特徴は、その殆どが千手・千眼の観音像の周囲に群像を表す形式を取ることである。この形式の千手観音像は唐代以降「大悲変相図」と呼ばれて来た(注1)。興味深いことに、最古の関連経典で七世紀末に訳されたとされる智通訳『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』(以下『千臂経』)(注2)の同本異訳、景龍三年(七〇九)菩提流志訳『千手千眼観世音菩薩姥陀羅尼身経』(以下『姥陀羅尼身経』)には、千手観音像の作成にあたって図像を指示する際の書き出しに、「若画千手千眼観世音菩薩摩訶薩像変者」(注3)とある。八世紀初頭の中国において、既に変相図形式の千手観音像が主流として定着していたことも推察されよう。聖観音や、千手観音以外の変化観音像においては独尊像も多く作られていることを考えると、この特徴は千手観音の造像に特有のものであり、中国の千手観音信仰の本質と密接に関わる図像形式である。従って、大悲変相図の図像解明は、中国に端緒を発する東アジア地域の千手観音像造像を考える上でも必要不可欠と言える。しかし、多い時には百体以上もの群像が千手観音像を取り囲む大悲変相図は、経典と図像を対比させるのが困難であり、実のところその場面設定についてさえ定見を見なかった。報告者はこれまで、中国の中でも敦煌に次ぐ作例数を誇るのみならず、唐代以降特に千手観音信仰が活発であったことが文献記録からも確認できる、四川の作例を対象として、大悲変相図の図像を解明すべく考察を進めて来た。千手観音の周囲に等間隔に尊像を並べる曼荼羅状の作例が見られる、敦煌の絵画作品に対して、摩崖に龕を刻む四川の作例は、その殆どが千手観音の上下左右を乗雲の群像が取り囲む形式をとる。足下に表す雲の尾が棚引く方向を見ると、中尊千手観音、もしくは龕前に立つ観者へ向かってこれら群像が降臨する様子を描くことが推察される。特定の世界観を象徴的に図示する曼荼羅というよりも、何らかのストーリー性をともなった場面が想定
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