― 475 ―らせ、猛獣である虎や獅子を手懐け、空を飛び、海を渡るなどの超人的な神通力のほか、天台山を舞台に法会や喫茶、入浴などの日常的な暮らしぶりなども描かれている。現在、五百羅漢図の遺例としては百幅、五十幅といった大部の系統と、十幅、二幅、一幅と少数の幅で構成される系統に分かれる。前者には南宋時代に描かれた百幅本からなる大徳寺伝来本がある。画中の金泥落款により、義紹という僧が発願し、林庭珪と周季常という画家が描いたもので、寧波近隣の東銭湖畔の恵安院に施入されたという制作の事情も明らかな作品である(注3)。他に本稿で取り上げる円覚寺の五百羅漢図(元時代)があり、また、これらの舶載羅漢図を範として制作したと考えられる南北朝〜室町時代に活躍した東福寺の画僧・明兆が描いた五十幅本がその下絵とともに知られている(注4)。これらの作例はいずれも細部の差異はあるものの概ね基本となる図様を共有していることが先行研究において指摘されている。一方、後者としては、一幅に約五十尊の羅漢を描く図があり、全幅完備する五百羅漢図は管見の限り確認できないものの、その一部とみられる個人蔵本、泉涌寺本、フリア美術館本、などが近年展覧会等で相次いで紹介されている(注5)。本研究では少数幅の五百羅漢図についても作品を調査する機会を得たが、別の機会にあらためて報告したい。大徳寺本と円覚寺本の関係鎌倉には舶載の羅漢図にまつわる伝承がのこされている。それには鎌倉が、鎌倉幕府の政策により、禅宗をはじめとした新来の大陸の文化を意識的に移入した土地であったことと関係するであろう。円覚寺の塔頭仏日庵の什物記録である「仏日庵公物目録」には数多くの舶載画について記載がある。その後の戦乱によって宝物はその多くが散逸してしまったようだが、宝物校合が行われた南北朝時代には一時、羅漢図だけでも十六羅漢図が二組、十八羅漢図、そして五百羅漢図を収めた箱が所蔵されていたことがわかる。小田原北条氏の菩提寺である早雲寺の什物を記した「早雲寺記録」〔図1〕(注6)によれば、大徳寺本五百羅漢図は、はじめ寿福寺にあったといい、建長寺の塔頭に移され、さらに後北条氏によって小田原に移された。そして、秀吉の手によって京都の方広寺大仏殿に寄進されたのちに大徳寺に施入されたという。一、今大徳寺所在之之五百羅漢、閻須平ノ筆、元来ハ建長寺ノ什物、一説ニ寿福寺ノ什物、運庵、虚堂、大應自讃ノ像三幅ハ元来天源庵ノ什物、陸信仲十五ノ絵、
元のページ ../index.html#485