鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 476 ―右ハ古来当山之什物ニテアリシヲ、秀吉京都御持参、五百羅漢ヲ天瑞寺へ御寄進、其後天瑞寺より大徳ノ方丈へ寄進也、運―、尽―、大―ノ三幅ニ白地ノ金襴ノ陣羽織ヲ添テ、大徳寺へ御寄進、十五ノ絵同断また、東福寺の画僧・明兆が五百羅漢図を制作するために鎌倉を訪れ、建長寺の顔輝筆の五百羅漢図を写したと『本朝画史』「僧明兆」では伝えられるように、江戸時代にはよく知られる逸話であったようである。しかし、「兆殿司」と称されて画史に名を残す明兆の代表作である東福寺の五百羅漢図と、同じく舶載仏画の名品としてよく知られた大徳寺の五百羅漢図の伝承が結びついた可能性が高く、明兆の鎌倉における足跡は残念ながら現在のところ確認されていない。しかし、その一方で中巌円月『東海一漚集』「画五百羅漢疏〈并序〉」(注7)は建長寺に五十幅の五百羅漢図があったことを伝えている。現在建長寺に五百羅漢図は所蔵されていないが、中巌の在世時期(十四世紀)には五十幅仕立ての五百羅漢図が鎌倉に所在したものと考えられる。さらに、五百羅漢図ではなく一幅に二尊ずつ羅漢を描いて八幅で十六羅漢図に仕立てられている建長寺所蔵の十六羅漢図(室町時代)はいわゆる金大受本、あるいは良詮筆建仁寺所蔵本など、最も流布した十六羅漢図の図様ではない。樹木の洞で座禅する羅漢や、韋駄天、飛来した羅漢を侍女が敷物を広げて迎え入れる図様などは、明らかに大部の五百羅漢図から図像を抄出して構成したものとみられる。また先述のように、「仏日庵公物目録」に「五百羅漢箱一合〈廿三補〉」とあり、現在残されている大徳寺本、円覚寺本がこれらのいずれかに該当するか否かは定かではないものの、これらの事例から大部の系統の五百羅漢図が鎌倉の地に伝わっていたと考えてよいだろう。円覚寺本五百羅漢図円覚寺本五百羅漢図は一幅に十尊ずつ羅漢を描く五十幅からなっている。そのうち張思恭筆と伝承される元時代の制作とみられる幅は三十三幅のみが現存し、伝明兆筆とされる室町時代の制作とみられる十六幅および江戸時代の狩野養川の一幅によって補われている。また、指摘されるように三十三幅のうちでも、岩塊の量感をみごとに表現する水墨技法に長けた一群と、やや控えめな描線により神経質に描く一群に大きく分類できる。画技の差はあるものの、同質の絹を使用していることから同じ時期に複数の画家により描かれたと考えられる(注8)。また、日本製と考えられる十七幅のうち、狩野養川の一幅を除く十六幅の中でも癖のある稚拙な描線で羅漢の奇怪さを

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