注⑴報告者は一休像など、大徳寺周辺の僧侶像が含まれる可能性に言及したことがある。梅沢恵「異― 479 ―おわりに鎌倉時代の来迎図などの仏画にも供養者や寄進者など実在の人物の肖像を描いた事例はあるが、画中の隅に描かれるなど比較的控えめな描写が多い。しかし、円覚寺本五百羅漢図の補作中においては、画中の羅漢と同化するようにともに歩き、洞窟で並んで座禅する姿で描かれている。このような表現にも羅漢という存在を到達すべき理想の修行者として捉える態度がうかがえる。唐代末期、五代の僧である禅月大師貫休(八三二〜九一二)は夢に感得した羅漢の姿を描いたという。『益州名画録』に「龐眉大目」「朶頤隆鼻」と記されるように通例の羅漢図に比べて奇怪さが強調された羅漢図として知られている。そうした貫休が描いた羅漢図の一幅には筆者である貫休自身の肖像が描かれていた、という中国の伝承に代表されるように、羅漢図に実在の人物像を紛れさせる伝統は、舶載画を受容した日本においても脈々と受け継がれていたことは、円覚寺本の伝明兆筆の一群をみれば明らかである。今後は本研究により抽出した人物像と大徳寺関係の僧侶像等を対照し、画中に描かれた人物画の像主の特定をめざしたい。国の仏を請来すること」『宋元仏画』、神奈川県立歴史博物館、2007。⑵成尋「参天台五台山記」『改訂史籍集覧』二六。⑶井手誠之輔「大徳寺伝来五百羅漢図試論」『聖地寧波 日本仏教1300年の源流─すべてはここからやって来た─』、奈良国立博物館、2009。⑷仙海義之「明兆による中国画の学習─「五百羅漢図」東福寺本と大徳寺本との比較─『鹿島美術研究』(年報第18号別冊)、2001。⑸梅沢恵「上堂図」(図版解説)『國華』1359、2009。『聖地寧波 日本仏教1300年の源流─すべてはここからやって来た─』、奈良国立博物館、2009。⑹「早雲寺記録」は天正年間の戦乱により失われた「旧記」を古老の伝により元禄十四年(1701)に編集したもので、同寺は今日に至るまで大徳寺派の寺院であることから、大徳寺の記録を参照して編集された可能性が高い。⑺『五山文学全集』二、思文閣、1973所収。⑻『神奈川縣文化財圖鑑』絵画篇、五百羅漢図解説(海老根聰郎氏)参照。⑼前掲注⑴。
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