鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 484 ―の西園寺大仏師としての地位を確認できる。次の事績も『公衡公記』から確認できる。正和四年四月二十五日条には後伏見院による日吉七社神輿造替のことがあり、道々輩交名に木仏師として名を連ねている〔史料2〕。性慶が担当したのは大宮、二宮、聖真子の三基で、このうちの大宮に朝円と名を連ねていたことから三条仏所系の仏師と考えられていたことは前記の通りである。円派の系譜は鎌倉時代以降あまりはっきりしないが、鎌倉中期には隆円や昌円が比叡山や院関係の造仏、修造を行い、特に比叡山の仏像修理では料所として但馬国東河郷を与えられており(注3)、また性慶と同時代の堯円も比叡山や院関係の事績が知られている。三条仏師の活動圏からみて後伏見院が関与する比叡山の鎮守社日吉社の仕事に三条仏師の起用は自然の流れだが、朝円の名が記されるのは性慶と連名の大宮のみで、しかもその記述からは二人の関係性は明確にし得ない。この頃までにも流派の違う仏師が造像の場を共有することはたびたびあり、朝円は木仏師の統括者的立場にあったのではないだろうか。またその場合、性慶の起用については宮中での影響力や後伏見院との密接な関係性からみて、公衡による推挙があったとも考えられる。三つ目の事績は『花園天皇宸記』元応二年(1320)九月八日条から、高山寺に性慶作の伏見院御影が安置されていたことが知られる〔史料3〕(注4)。西園寺家と高山寺の縁が深いのは熊田由美子氏による研究があり(注5)、西園寺大仏師として性慶が高山寺の造像に携わったのであろう。花園院はこの御影を「少しの相違もなく龍顔に向かうようで懐かしく涙が抑え難かった」と高く評価している。性慶作品の概要①京都・永明院 宝冠釈■如来坐像〔図1〕像高53.5cm(1尺7寸7分)。寄木造り。金泥塗り、切金、玉眼。元亨四年(1324)銘〔史料4〕。本像は未調査の為、写真、見学記録、田邉三郎助氏の論考を参考に記述する(注6)。【形状】丈の高い垂髻。髪はすべて毛筋彫り。天冠台は紐二条の上に花弁形を配し、正面と両耳上に花形飾りをあらわす。天冠台は両耳上で緩く屈曲する。額両端の位置で天冠台に髪束を交差させて絡め、同じく天冠台両耳上の花形飾り後方でも髪束を絡める。鬢髪一条耳を渡る。白毫相(旋毛形)。耳朶環状貫通。三道。左手を下にして禅定印を結び、結跏趺坐する。内衣、覆肩衣、袈裟、裙を着ける。宝冠、胸飾をつける。【品質構造】頭体幹部は前後二材製、両肩以下体側部と両脚部に別材を矧ぐ。髻別材

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