― 488 ―くり、左足踵の上にあらわれる衣の折りたたみなど、細かな特徴もよく共通する(注14)。全体として作風の振り幅はかなり限定されているが、あえて変化を見出すとすれば顔の輪郭で、年代が下がるにつれてこめかみのあたりが引き締まる。願成寺像が永明院像や志那神社像よりもやや面長な印象をうけるのはそのためである。この他、薬師堂像以外の作品に共通して見られる特徴に、天冠台に髪束を絡めることがある。これは鎌倉時代以降、肥後定慶の作例をはじめとする宋風彫刻によく見られ、鎌倉末期の慶派正系仏師である湛康や東寺大仏師となった康誉、康俊たちのほか院派仏師も多用しているが、三条仏師では十四世紀後半に福島県域で活動した乗円の作例に事例が確認できるのみである。三条仏師による菩■形像の作例が少ないため、あくまでも推測だが、保守的な作風を守っていた彼らが意識的に採用しなかったとも考えられる。また永明院像や志那神社像の像底仕上げの体裁と銘記法については、康誉や康俊と共通することが指摘されているが(注15)、それだけではなく、像底の形そのものが良く似ていることも指摘したい〔図6〜11〕。坐像の場合、像底が逆三角形のような形になるものは多い。ただし実相寺像が他像とは坐形が異なるにも関わらず同様の形となるのは、意識的に整えられているためとも解釈できよう。これは堯円作品の像底が円形に近いのと対照的で〔図12〕、性慶・康誉・康俊の立体把握には根底に共通するものがあるのかもしれない。性慶はこれまで堯円との作風の近似に注目されることが多く、作品全体のまとまりの良さや穏やかさに類似性を見ることに異論はない。しかし、前記した髪を天冠台に絡める装飾や両脚部の衣文線の処理などには表現の方向性に違いを見せ、伝統的な鎌倉彫刻らしさをより残しているのは堯円の方といってよい。湛慶の作風形成に他派からの影響を見るように(注16)、性慶も日吉社御輿造替のような造像活動を通じて三条仏師をはじめとする他派と接点を持ち、作風形成に影響を受けていったのであろう。おわりに性慶は元亨四年の永明院像を最後に京都での作例は知られておらず、また正中三年に東寺大仏師職獲得を目指して提出した申状を最後に西園寺大仏師の肩書も使用しなくなる。西園寺家は関東申次を世襲し権勢をふるっていたが、正中の変など後醍醐天皇による倒幕の機運が高まるにしたがって、急速に求心力を失いつつあった。それは、それまで頻繁にあった上皇・天皇等の北山第への行幸が正中二年頃からほとんど見ら
元のページ ../index.html#498