注⑴性慶を七条仏師とするものに①『日本美術大系』第二巻彫刻■、誠文堂新光社、1941年、②『室町時代仏像彫刻』奈良国立博物館、1970年3月がある。ただし②では作風に三条仏師の穏やかさが看取され七条仏所系の仏師とは断定できないとしている。― 489 ―れなくなったことからも明らかである。性慶が新たな権益確保を狙って東寺大仏師職補任を求めたのも、西園寺家を取り巻く状況の変化が背景にあったとみられる。結局、性慶が東寺大仏師職に就くことはなく、康誉が暦応元年(1338)に漸く補任を受けるが、相論の際に性慶が東寺に提出した「奈良方系図」には康誉の名は記されていない。そこには自らが有利となるよう性慶の作為や誇張があり、また同時に康誉がこの系図に記名されなくても不自然でないほどマイナーな仏師であったことはすでに指摘の通りである(注17)。しかし、それまでの事績が不詳の康誉に比べ(注18)、性慶はすでに西園寺大仏師として西園寺関係だけでなく院や東福寺関係の仕事をしていた。また当時都でも有数の大寺院であった西園寺の大仏師に就くにあたっても何らかの形で出自が考慮されたと考えられる。北山西園寺伝来とされる西園寺本尊阿弥陀如来坐像が湛慶あるいはその周辺の仏師による造像であるならば(注19)、性慶が主張するように西園寺大仏師が湛慶の系譜における相伝の対象となっていた可能性もあるだろう。性慶の申状に多少の作為や誇張があったとしてもその出自を全く偽るというのは状況から考えて難しく、性慶の主張もある程度信用できるものと考えたい。そのため、今後は形式的な特徴に共通点が見出せる康誉、康俊らとの関係性も積極的に考察していく必要があるだろう。鎌倉末期から南北朝時代にかけて活動が知られる仏師は極めて多く、また作風や活動の幅も広いため、性慶の仏師系譜のように、今後も再検証を要する問題は多数生じることが予想される。よって今後も引き続き、当代彫刻史研究の基礎作業として各仏師の作品基礎データを収集整理し、作風の展開や造仏活動の実態を明らかにしていきたいと考えている。⑵根立研介「東寺大仏師職考」(『仏教芸術』211)1993年11月。同「東寺大仏師職考補遺―鎌倉から室町時代初頭にかけての動向を中心に」(『仏教芸術』222)1995年9月。同「慶派仏師の末裔たちの動向―東寺大仏師職をめぐって―」(『日本中世の仏師と社会』所収)塙書房、2006年5月。⑶松島健「西園寺本尊考」(『国華』1083・1084)1985年5月・6月。(『鹿苑寺と西園寺』所収思文閣出版、2004年4月)⑷同記正中二年(1325)十一月八日条に「於栂尾旧院御影…」とあり、正慶作の御影が旧院すなわち伏見院のものであることがわかる。宮島新一『肖像画』吉川弘文館、1994年11月。⑸熊田由美子「晩年期の運慶―その造像状況をめぐる一考察」(『東京藝術大学美術学部紀要』26)1991年3月。
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