― 494 ―㊺ 江戸幕府の造像と天海の構想及び七条仏師に関する研究研 究 者:文化庁 文化財部 美術学芸課 文化財調査官 川 瀬 由 照はじめに近年の日本彫刻史の研究では、江戸時代の名のある仏師の新出作品の紹介はもちろんのこと、室町時代以降の作品の系統的研究や仏師組織の解明等についての進展はめざましいものがある。本報告では江戸初期における日光山の造像における七条仏師の関わりと特殊な尊像及び天海の肖像について報告していきたい。七条仏師と天海関連の造像七条中仏所の系統を記録する『本朝仏師正統系図并末流』(以下『仏師系図』と略す)(注1)は定朝や運慶からの嫡流を表しており、平安後期から正統仏師の事蹟を記載している。鎌倉時代以前の事績に関しては信憑性が疑われることもあるが、室町時代以降についての史料性は高い。江戸時代初期に七条仏師は江戸幕府関連の造像及び仏像修理を数多く手がけているが、その発端についてはすでに三山進氏が検討している(注2)。三山氏は、大西芳雄氏の木村了琢の研究(注3)から七条仏師と天海(1536〜1643)の繋がりに関して言及している。大西氏は天海が木村了琢を深秘の絵師に選定したい理由について、比叡山が織田信長による焼き討ち(元亀二年[1571]九月)から復興する際、関連の仏画を担当した絵仏師の代表であり、技法的にもすぐれた木村了琢を選んだと推定しており、寛永十二年(1635)の東照宮内陣の諸尊の図が木村了琢(第四代)に与えられた最初の深秘の仏画制作と推定している。その上で三山氏は、仏師康正が山門大仏師職に任命され、日吉七社の神体秘伝が授けられて天正十一年(1583)から日吉社神体仏像百七体の造像が行われたことから、このことを天海が南光坊滞在中に知ったためによると指摘している。康正が比叡山関連の職についたのは仏師組織としての新たな展開ともとられている(注4)。日吉社の造像は康正一派によってなされたものの、康正は東山大仏、東寺、高野山などの造像をおこなっていたこともあり、慶長十二年(1607)の日吉社の釈■像造像以外に他の造像例が知られず、比叡山関係の造像はあまりなかったものとみなされる。ただし康音の代になると根本中堂本尊の修理や諸堂の仏像の制作などをおこなうようになる。そのため直ちに天海関連、ならびに徳川幕府関連の造像はおこなわれず、康正次代
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