鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 495 ―の康猶による幕府の造像は元和三年(1617)五月の東照宮三所権現・本地堂本尊の造像が最初となっている。康猶は康正の嫡子とされ、康正と同様東寺大仏師職となり、その後、寛永八年(1631)徳川家康十七回忌本尊などを造像している。三山進氏が紹介した『御用覚書』においてももっとも古い事績が元和三年のときの造像であるから、七条中仏所の幕府関係の仕事はこれが最初なのであろう。その後は三回忌の阿弥陀像等、以後の回忌本尊の調進は康猶・康音が行っており、ほかにも幕府関連の造像が増えてくる。なお、絵仏師の場合、木村了琢が最初に東照宮の深秘の仏画を担当したのは寛永十二年(1635)のことであるとされる。これは日光東照宮内陣の壁画制作で、諸深秘図や家康本地の薬師像等多種の仏菩■像が描かれ、相伝の如く描くよう天海が指示している。現在、これにさかのぼる史料は発見されていないので、この推測は正しいものとみなされ、輪王寺文書にも寛永十二年の東照大権現内陣の壁画に関する記録がもっとも古く(注5)〔図1〕、以後、寛永十八年(1641)の奥院宝塔本尊壁画、元禄二年(1689)東照宮内陣壁画修理、元禄三年(1690)東照大権現安鎮本尊、正徳三年(1713)東照宮内陣修理及び奥院再興などで相伝の仏画で彩色・修理が行われるよう天海による指示がなされている。二十五回忌の仏像については田邉三郎助氏がとりあげた「日光山東照大権現廿五回忌御本尊目録」(注6)にも相伝のごとく彫刻するように指示がなされている。この諸尊の組み合わせは特殊で、木村了琢へ指示した東照宮内陣の図様もかなり特殊である。秘伝であったがため現在その意味については明確ではない。また、二十五回忌本尊として制作された仏像は一堂に祀られたのではなく、安置堂宇についての注記があり五大明王は護摩堂、傅大士は経蔵とあり、セット性があるのではなく各堂でそれぞれ修法がおこなわれたとも想像される。元和二年(1616)に没した徳川家康はいったん久能山に祀られ、その後遺言により日光山に移された。『徳川実紀』台徳院殿御実紀元和三年(1617)四月八日の条には「靈柩を日光山奥院巖窟中に安置し奉る。大僧正天海兩部習合の念想を密凝し。五眼具足の印明を授進らす。凡て今度の御事。天海大僧正專らうけたまりしは」とあり、すべては天海の構想・指示によってなされ、家康の「尊体」は日光に遷座されて東照大権現を主祭神、山王神と摩多羅神を相殿神として祀られて、密教修法がなされた。家康を祀る宝塔内部について「東照大権現二十五回御年忌記」に「入塔内。塔内安薬師仏像、餘仏體不少」と多くの仏像があったとされる。壁画の場合も宝塔や内陣に描かれたものなのでセットとして描かれたものである。とすれば先述の特殊な尊像構

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