― 496 ―成も安置堂宇が一箇所でなくとも一具としての意味があるのであろう。いずれにしても天海が康猶に幕府御用の造像を依頼したのは、三山氏の論じているように康正が一流相承の秘事である日吉七社神体の秘伝を面授されたことにより代々受け継がれていたからなのであろう。山王神道にもとづく天海独特の祭祀にももっともかなった仏師であったものとみなされる。康正の日吉七社の神体伝授は宇野茂樹氏が早くから論じており、天正十二年(1584)より造像が始まったことを論じている(注7)。なお、天海と家康との出会いは『東叡山開山慈眼大師伝記』(注8)には慶長十三年(1608)のことであると記されている。七条仏師は天海との繋がりを以後得て、というより天海が七条仏師をよくもちいたとすべきであろう。仏画類ではすでに木村了琢に関する研究から天海が絵師を抱えて直接養成したことがよく知られている。特殊な尊像構成や彩色等は深秘として伝授されるものとなった。現在日光山に残る深秘の仏画類は特殊な尊像配置や彩色がなされており、線描は硬く平面的な絵画表現となっているが、これは伝授される規範が重要であるために自由な表現が許されなかったのかもしれない。彫刻の場合も表現に自由さがなくなっているのも伝授による制約があったものとみるべきかもしれない。天海像の制作と安置場所江戸初期七条仏師の作品の代表となるのは康音作の天海像であろう〔図2〕。面部や衣文の自然な表現や堂々とした体躯は威厳に満ち、天海の生前の圧倒的な存在感が彷彿とされる。迫真性が高く、寿像であることを納得させる像である〔図3〕。或いは深秘による天海の指示によったためかもしれないが仏像が形式化していることから、ともすればこの時期の中央仏師の力量を過小評価してしまいがちだが、肖像においては鎌倉彫刻とも見紛うような出来ばえをみせているところから本来はもっと評価して良いものとみられる。本像の制作状況はこの期の七条仏師の状況をよくあらわすものとみなされるので、以下考察したい。本像についてはこれまで諸書に触れられているものの、像内よりの調査が不可能であったが、修理により像内をうかがうことができたので以下に概要を記す。構造は、檜材の寄木造で、頭躰別材製となる。頭部は耳後の線で正面に前後三材、後方に左右二材の五材からなる。正面材正面より背面に向かって材が細くなる台形状で、左右側面に材を足す。内刳の上両耳前で割矧ぎ玉眼を嵌入する。頭躰は襟際で矧ぐ。躰幹部は前後二材矧とし、背面材より僧綱領を彫出する。両肩外側部各一材矧付、
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