― 497 ―両袖先各別材矧付とする。両足部横一材製。襟内、胸内、腹部正面(左右三材)、両前膊を覆う袖口、裳先、背面の修多羅、両手首先等を各矧ぐ。表面は布貼り、砥粉下地彩色仕上げとする。像内頭部背面に下記の墨書がある〔図4〕。 「日光山開山 山門三院執行探題 大僧正天海之像洛陽七条大仏師法眼康音作焉 寛永十七庚辰歳 四月十七日 」頭部の構造は主要部底面が台形となり、側面に材を足すという珍しい構造をなす〔図5〕。頭部正面に矧目がこないようにする仕口ともみられるが(注9)、この構造は本像と同時期に制作された東照宮二十五回忌本尊中の大威徳明王の躰部も同じように矧目の形状が台形状をなす(注10)。二十五回忌本尊にはこの五大明王のほかに傅大士二童子、羅■星、十二天などやはり深秘による造像によって康音が制作したことがわかっている(注11)。大徳明王像は本躰が牛座より離れ、像底より構造がうかがうことができるので構造がほぼ判明するのだが〔図6、7〕、他の像内が不明な像についても同様の仕口があるかもしれない。いずれにしても天海像と二十五回忌本尊は同じ康音が制作したもので、しかも構造的にも類似している。制作もほぼ間をおかずに行われたのであろう。現在、天海像(慈眼大師像)は護摩堂に安置されているが、平成十年の当堂新築により護法天堂より移座したものである。それ以前についてははっきりとしておらず、しかも日光山には天海像が一体だけではなく、数体あったことが記録からわかっており、本像がいずれに当たるのか判断しかねる点も多い。本像の安置場所や伝来について最近、岩佐光晴氏は本像を詳細に検討している(注12)。岩佐氏は台座裏面の墨書銘(注13)を手がかりに慈眼堂別当無量院が記した「慈眼堂御修復奉願覚」(文化六年十月)に慈眼堂にある本地堂内の慈眼大師真影木像が本像に当たるものとして文化の頃は本地堂に安置されていたと論じた。なお、無量院は天海寂後、天海の跡を嗣いだ公海が建立したもので慈眼堂の別当として寺務を担った。昭和七年作成の『日光山社堂明細書』(注14)には昭和初期の輪王寺諸堂の記載があり、慈眼堂には一基十一宇の建物があったという。慈眼堂は堂というより、天海の
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