鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 498 ―墓所(五輪石塔)を中心とした一院ともいえ、石塔とその拝殿は現存しており、他にもいわゆる天海蔵が納められていた文庫、鐘楼、水屋は残っているが、他の堂宇はなくなっている。退転した堂宇の中に間口三間の影堂があった(他に弥陀堂、門、供所、宝蔵、求聞持堂、稲荷堂があったとされる。)。それが本地堂と称され、天海の本地である文殊菩■を天海像とともに安置する堂宇であるので後に影堂とも称されるようになったようである。なお、この影堂は中善寺に移築し波之利大黒天堂となっている。天海が十月二日に没した後(注15)、二十日に家光は日光・東叡・坂本の三所に天海の影堂造立の役目を命じている。天海像造立は影堂発願より先であるから、当初は他の場所に安置されていたはずであるが、これまでこうした点についての言及はなかった。教城院二十七世の天全が宝暦三年(1753)にあらわした『旧記』の寛永十三年条には東照宮の東に別所を建立した記事がある。別所は大楽院と号し、道場の正面に慈眼大師の影像を存命中に開眼したという(注16)。本像は現在知られている天海像の寿像としてはもっとも古いので、本像は当初大楽院に祀られたとみるべきである。家康を祀る東照宮の別当寺に本像が祀られるのは家康と天海の関係からももっとも相応しいといえる。なお、像内銘には寛永十七年(1640)四月十七日の年紀がある。当日は奥院石造宝塔改築がなり、家康二十五回忌法要がおこなわれた日である(注17)。この日は徳川家光が日光に社参し、東照宮縁起絵巻を奉納しているのである。東照宮縁起は、徳川家康の生誕から日光埋葬までの一代記で、家光が祖父家康に対する思慕崇拝によりつくられたもので、まず寛永十三年(1636)に家康二十一回忌に向けて天海によって■述されて東照宮に奉納された。さらに同十七年に追加等がなされ、青蓮院宮尊純法親王が清書、狩野探幽が描いて装丁された八巻が奉納されたのである(注18)。東照宮縁起は四年の歳月をかけて完成したのだが、本文完成後天海は将軍家光の前で朗読し、尾張・紀伊・水戸の親藩三藩主に門議して正鵠を期したという。十七日は大雨で山王祭礼が順延したが、縁起は奉納され、天海には銀三百枚、時服二十枚が下賜された。天海は寛永十三年(1636)の神忌勅祭行事後から病に伏すようになったといわれるが、家光は幕府の官医を遣わすなど破格の待遇をしている。没後も幕府による盛大な葬儀が営まれ、巨大な石塔下に埋葬されるなど僧侶としては当時最も厚遇された。本像は東照宮縁起完成を記念、かつ天海のこれまでの業績を讃えて制作されたのであろう。岩佐氏が指摘しているように、「本像に見られる入念な造形を伴う諸像の造立は、家光のような江戸幕府を代表する人物の発願によってはじめて可能になる」といえよ

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