鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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注⑴本稿ではもっとも詳細な昭和七年発行の『美術研究』十一(昭和七年)所収本を用いる⑵三山進「近世七条仏所の幕府御用をめぐって―新出の史料を中心に―」(『鎌倉』八〇、平成八― 499 ―う。家光は家康と同等に天海を崇敬していたからその病を心配して早急に天海の肖像制作を命じたのであろう。なお、この時期の七条仏師の日光における造像では、仏師が像内に銘文を記すことはほとんどない。本像に銘文を記したのには意味があるのだろう。「日光山開山」と康音が記しているが、通常日光山の開山は勝道上人とされる。これを承知で開山と記しているのには、多年の荒廃からの復興は天海の功績大であることが周知のことであり、さらには康猶以後日光をはじめとする幕府御用を担うことができたのは天海の御陰であるとの強い思いからこのように記させたのではなかろうか。おわりに天海関係の造像に関しては史料の掘り起こしにより以前より明らかになった点も多く、仏像のみならず仏画制作に関しても今後さらに解明が期待できると思われる。さらには仏画と彫刻と建築配置との総合的な考察からはじめて天海の構想が明らかになると思われるがこうした点については今後研究を継続して参りたい。また、七条中仏所は幕府関連の造像を中心としておこなっていくが、日光関係の造像・修理は康祐の頃から徐々に減り、民部や清水隆慶らが日光に入って造像を担っていくようである。仏師関係の史料の調査とともに仏師系図による現存作例の調査を引き続きおこなうことによって今後仏師組織ごとの関係もさらに明瞭になるのではないかと考えられる。年)⑶大西芳雄「絵仏師木村了琢―東照宮深秘の壁画について―」(『東京国立博物館紀要』一〇、昭和四十九年)⑷根立研介『日本中世の仏師と社会』塙書房、平成十八年⑸日光山東照大権現御内陣畫圖目録一 諸神深秘圖 所傳一 薬師十二神一 釈■并十六善神一 弥陀并二十五菩■一 観音并二十八部衆一 五大尊

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