鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 505 ―せているがその冒頭において、建築家・理論家のカトルメール・ド・カンシー(Antoine Chrysôthome Quatremère de Quincy 1755−1849)が1825年10月1日、前年に没した画家のために行った追悼講演の内容を詳しく論じている(注4)。フュマロリが注意を促すのは、歴史画が果たすべき機能も、その制作の前提をなす社会的基盤ももはや失われてしまったという認識をカトルメールが示している点である。カトルメールの理解するところでは、ルイ16世治下に王室建築物総監ダンジヴィレ伯爵が行った歴史画復興政策もこうした状況を覆すものではなかった。ダンジヴィレ伯爵が積極的に歴史画の制作を促したとしても、完成した作品は展覧会の壁を飾り、国家のコレクションを充実させるという国家の「贅沢品」としての役割の他には果たすべき積極的な機能を持たないからである。かつては王侯貴族の邸宅やカトリック教会内に安住すべき場所が用意されていた歴史画だが、もはや最後に納まるべき場所は「美術館とギャラリー」となったのである。こうした運命をたどった代表的な作品としてカトルメールはダヴィッドの《ホラティウス兄弟の誓い》を挙げる〔図2〕。フュマロリはこうしたカトルメールの認識を踏まえて、ここに社会的機能や個人の楽しみなどから切り離された形で存在する美術館と、そこに納まることを最終目的・存在理由とする近代的な芸術作品のありようが出現したことを見て取る。そして、カトルメールが賛辞を捧げる歴史画家ジロデを、マネに先んじて「美術の終わり」の犠牲となった近代的芸術家の先駆として位置づけるのである。ただし、カトルメールが歴史画の定義について厳密であったことには注意すべきである。例えば、ナポレオンの偉業を扱った画題は歴史画とするにふさわしいとする見解も当時あったが、カトルメールの見解は異なる。ジロデがナポレオン政権化に国家委嘱作品として制作した《カイロの反乱》、《ウィーンの降伏、1805年11月13日》の2点について、「劣ったジャンル」とカトルメールは形容している。その上で、カトルメールは国家委嘱という世俗的には栄誉ある機会も歴史画家ジロデにとっては精神的苦痛をもたらすものに他ならなかったとし、これを埋め合わせるために画家が自らの意志によってその才能にふさわしい仕事として制作したのが《大洪水の情景》であったとする。しかし、この作品もまた「行き先」も「目的」も持たないものであり、ひたすら画家の技量を誇示することのみを存在理由とせざるを得ないような、作品を取り巻く環境から孤立した作品とする。このようなジロデの立場について、フュマロリは「民主主義革命の世紀の「難民」となる悲劇」と述べている(注5)。18世紀中頃から〈大洪水〉や〈火山の噴火〉といった自然界におきる災害(カタス

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