― 506 ―トロフィ)が文学や造形芸術において大きな流行を見たことは広く知られており、ジロデの《大洪水の情景》もこの系譜に属す(注6)。1789年のサロン展に出品されたジャン・バティスト・ルニョーの《大洪水》〔図3〕もまた別の例の一つだが、ジロデはこの作品にもとづくスケッチを残している〔図4〕。ベランジェは1790年4月にジロデがローマへと出発する前にルニョーの作品をスケッチしたものと推測しているが(注7)、男性に背負われる老人の左手を上げる特徴的な身振りがジロデのスケッチには認められず、このデッサンが実際の作品を前にしてなされたものかは疑問が残る。〈大洪水〉と同様に〈火山の噴火〉も当時流行した題材の一つだが、ジロデは後見人で後に養子縁組をすることになるブノワ=フランソワ・トリオゾン博士(Benoît-François Trioson 1735−1815)の所有するブールゴワン城の一室〈自然史の間〉を飾る作品として、〈ヴェスヴィオ火山の噴火〉を描く計画をしていたことが知られている(注8)。画家没後に遺稿をまとめて刊行したピエール=アレクサンドル・クーパン(Pierre-Alexandre Coupin 1780−1841)の伝えるところでは、画家はイタリアのジェノバ滞在中に《大洪水の情景》の最初の構想を得た(注9)。ジロデは1790年から1795年までローマを中心にイタリアに暮らすが、ジェノバに滞在したのは1795年5月から9月までである。クーパンの兄でジロデの弟子でもあったクーパン・ド・ラ・クープリー(Marie-Philippe Coupin de la Couperie 1773−1851)は、後年にジロデ自身がこれを裏付ける発言をしていたことを回想している(注10)。クーパンはまた、1802年のサロン展に《祖国のために死んだフランスの英雄たちへの礼讃》を出品した後ジロデが《大洪水の情景》にとりかかり、「自らのアトリエに四年間閉じこもり」この作品を完成したと証言している(注11)。加えてこの作品の制作時に夜間に蝋燭の灯りで制作する習慣を得たこと、そして長編詩『詩人』の執筆をこの頃から始めたとも伝えている(注12)。以上に見てきたように《大洪水の情景》が完成に至るまでの経緯を語る文字資料は多くないが、一方、作品の画面の展開の様子を示してくれる準備作例がいくつか残されているので、これらについても確認しておく。ジェノバで最初の構想が得られたというクーパンの証言に対応するように、ジロデがイタリア旅行中に使用したとされるクロッキー帳には洪水に襲われる家族を描いた2点のデッサンが確認できる〔図5〕。異なる構図の2点の構想が隣り合っているが、その左のものはすでに完成作と共通するいくつかの特徴を備えている。この段階です
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