― 507 ―でに背負われている老人の手に財布(金銭の入った袋)が握られているのは興味深い。ジロデがイタリア滞在中に風景画に強く惹かれていたことは良く知られている。彼が自然の優美さと、人間に襲い掛かる恐ろしさの両面に惹かれていたことを示すのがマニャン美術館に所蔵されているデッサン《蛇を見て驚く女性のいる風景》〔図6〕である。画面中央には、大きな蛇を見て後方にのけぞり、崖下へと転落しそうになる古代風の衣装を身に着けた女性の姿が描かれている。画面の右下には画家のローマ時代の代表作《エンデュミオンの眠り》〔図7〕の主人公と同じ姿勢で横たわるヌードの男性が潜んでいる。女性を驚かせる蛇は自然の生み出す恐怖を象徴する存在であり、本作は《大洪水の情景》との強い関連を示すものである。《大洪水の情景》のための準備作例のうち、〔図4〕に続いて制作されたと考えられるのがファーブル美術館所蔵のスケッチである〔図8〕。ここにおいて父親がつかまる樹が画面に登場する。筆致が粗いため判別は難しいが老人の手には引き続き財布が握られている。さらに〈大洪水〉を描いた横長の画面のスケッチ2点の存在が知られている。1点は現在所在不明で、画面右下にトカゲの姿が描かれているのが特徴である(注14)。もう1点はジロデ美術館所蔵のもので、サロン展出品作の続きとも言えそうな状況を描いており、老人は洪水に飲み込まれ、財布を手にしたまま水面に浮かんでいる(注15)〔図9〕。この2点のうち、前者は単純化された明確な輪郭線で主要人物が仕上げられており、線描による作品として完成が目指されていた可能性がある。後者についても画面全体に丁寧な彩色が施されており、小品ながら単なる準備のためのスケッチと見ることは難しい。おそらくファーブル美術館所蔵のスケッチを出発点にして、エスキスの制作が始まったものと思われ、現在3点のエスキスの存在が確認されている。シルヴァン・ラヴェシエールに従えば、完成作に最も近いのがデランドル・コレクションとして知られるエスキス〔図10〕であり、これに続くのが2002年にルーヴル美術館に収蔵されたもの〔図11〕、さらにこれに先立つものと推定されるのがドラマール・コレクションとして知られるエスキスである〔図12〕(注16)。ルーヴル美術館に所蔵されるエスキスを除いて、残る2点のエスキスについては現在所在不明である。1795年9月16日、ジロデはジェノバを出発し、スイス経由でフランスへと向かうが、この時のアルプス越えの際に得た自然の「崇高さ」の体験も〈大洪水〉のテーマに画家が惹きつけられた原因の一つであるとされる(注13)。
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