― 508 ―以上のような段階を経て、現在ルーヴル美術館に所蔵されている《大洪水の情景》は完成にいたったと思われる。そして1806年のサロン展に4点の肖像画とともに出品された。本作は「223.大洪水の情景[Scène du déluge]。一組の家族が今まさに嵐に飲み込まれようとしている。」とリヴレには紹介されているが(注17)、作品の題名は「Scène du déluge」(「de」ではなく「du」)と誤記されている。ジロデは『ジュルナル・ド・パリ』誌上でこの誤りを正し、作品に寄せられた批判に反論した。さらに翌1807年には匿名で小冊子『1806年の諸批評に対する批評』(注18)を刊行し、自作に対する批評に批評を加えた。稿者は以前にジロデの残した発言から、ジロデが歴史画家は詩人と同様に自由に主題を創出する権利を有すると考えていたこと、したがって意図的に世間一般に浸透しているような穏健な絵画観を拡張し、その規範を抵触するような表現、すなわちレッシングが造形芸術においては避けるべきとした恐怖の絶頂の瞬間を描き出すことをあえて目指した可能性を指摘している(注19)。本稿ではさらに、作者自身をも含む多数者間での議論そのものが作品の評価を形成していったという事態にも注意を払い、その上でジロデが一般的な観衆、すなわち「公衆」(public)の存在を否定的にとらえ、そのことを公言してはばからなかったことを指摘したい。すでにダヴィッドが1780年代の一連の歴史画の意欲作によって顕在化させたように革命前夜においてすでに、特定の特権保持者によって判断可能であった芸術作品の評価が、匿名的・流動的な集団である公衆によって左右される事態が到来していた。ダヴィッドはこの「公衆」の存在を前提に、反権威的な(具体的には反アカデミーの)姿勢を明確にすることで公衆の間に自作に好意的な批評が醸成されることを目指した(注20)。ロベスピエールの失脚によって逮捕・監禁という危機に陥り、そこからの再起をめざしたダヴィッドは、直接的に「公衆」と結びついた形での歴史画の制作と発表を試みる。これが1799年の《サビニの女》の公開に際して、入場料を払って作品を鑑賞するという特殊な展示・鑑賞方法を採用した理由である。ダヴィッドはこの試みを、高貴なる自由さを保ったまま作品制作を可能にするものとして説明し、同時に、入場料を払う人々も、芸術作品の高貴なる自由さを保障する重要な役割を果たすことになると積極的に訴えたのである。これに対してジロデにとっての「公衆」とは、自身の作品を正当に評価しうる存在ではなかった。1806年のサロン展が開会した翌日、《大洪水の情景》の搬入を終えたジロデは友人であり弟子でもあるアントワーヌ=クロード・パヌティエール
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