鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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― 515 ―㊼ 近世初期風俗画のポリティクス―狩野内膳「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)の解釈を中心に―研 究 者:明治学院大学 非常勤講師  高 松 麻 里はじめに本研究は狩野内膳(1570−1616)の画業のなかで特に南蛮屏風に焦点をあて、その図像の成立と意味を考察する。六曲一双の大画面に、南蛮船と南蛮寺を配し、荷揚げされた品々を手に往来をゆく商人たちと、彼らを出迎えるキリスト教宣教師たち。構図や図様、そして様式も様々に異なる南蛮屏風は、坂本満氏らがまとめた最新の総目録である『南蛮屏風集成』(中央公論美術出版,2008)によれば、現在までに91点の存在が確認されている。こうした南蛮屏風の作品群にあって、「狩野内膳筆」の落款と印章をもつ4点の南蛮屏風は、制作者がほぼ確実に判明する点で例外的である。中でも現在、神戸市立博物館に所蔵される六曲一双(以下、神戸市博本、〔図1〕)は狩野内膳自身の筆になる基準作とされてきた(注1)。さらに左隻に描きこまれた象が、慶長2年(1597)にスペインのルソン総督から豊臣秀吉(1537−98)へ贈られたものとされ、その制作年代についても上限が推測できる(注2)。狩野内膳研究の先鞭をつけられた成澤勝嗣氏は、近年、この象を見守る親子が秀吉とその子秀頼(1593−1615)を、そしてこの象のとなりで輿にのる老人も秀吉を彷彿とさせるとし、神戸市博本は秀吉が達成できなかった世界制覇の夢を、内膳が「鎮魂歌」として視覚化したものと解釈している(注3)。確かに秀吉の肖像画との比較や、後述するスペイン人商人アビラ・ヒロンが著した『日本王国記』の記述との一致からも、親子に秀吉と秀頼の面影を見出すことは蓋然性が高いように思われる。しかし、その意図を理解するためには、ある特定の歴史的な出来事に言及している点を、屏風絵全体のなかで解釈する必要がある(注4)。この象と秀吉親子の描写がなぜ空想的な伽藍とともに描かれているのか、また対となる右隻の描写とはどのような関係にあるのかといった点についても検討が必要であろう。さらに、内膳の屏風絵制作全体の中で、この南蛮屏風制作がどのように位置付けられるのかを考えることも必要である。慶長9年(1604)の豊国臨時祭礼の様子を描いた屏風絵を制作し豊国社へ奉納した可能性が高いことを考えると、ある歴史的事件を注文主の意向に応じて脚色し、絵画化するという内膳の制作の傾向が見えてくる。以上の問題をふまえ、本稿では神戸市博本について、その表現上の特徴を、歴史的

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