1.神戸市博本の特色まず神戸市博本が南蛮屏風全体のなかでどのように位置づけられるのかを確認しておこう。『南蛮屏風集成』は、現在までに確認される91点の作品のうち、最初期に描かれたと考えられる作例10点を抽出し、その制作年代を慶長年間(1596−1615)前後としている(注5)。神戸市博本もこれに含まれる。一見、類型的と思われる南蛮屏風であるが、比較すると一点ずつに差異がある。特にこの初期作10点については、それぞれに独立性が高く、慶長末以降に量産されるようになる南蛮屏風群の祖型と考えられることが指摘されている(注6)。このなかで、神戸市博本が図像の点で独自性を見せるのは、象を描くこと、そして救世主像を多用することの2点である。2.象が描かれることの意図南蛮屏風には様々な舶来の動物が描きこまれるが、象については、1点の例外を除き(注7)、神戸市博本とこれに連なる同構図の作品(以下、内膳系)計5点にしか描かれていない。生きた象が日本に渡来したのは応永15年(1408)、足利義持の時に南蛮船が若狭に漂着したのが最初だという(注8)。その後、天正2年(1574)に明船が豊後臼杵に到来し、大友宗麟に象・虎・鸚鵡を贈っている。これらに続くのが、秀吉の時代、慶長2年(1597)にスペインのルソン総督から贈られたものと、家康の時代、慶長7年(1602)に交趾から贈られたものである。その次は享保年間(1716−36)となるため、内膳の描いた象はこの秀吉か家康のものを想定していると考えられる(注9)。― 516 ―文脈に即して再解釈していく。まず、他の南蛮屏風作例と比較し、神戸市博本および内膳系南蛮屏風の図様の特色を明らかにする。ここで、象を描くことと救世主像の多用という特性が明らかになろう。次に象によって連想される神戸市博本の歴史的背景を考察する。さらに救世主像の図像の源泉をさぐり、これが当時、何を意味するものと理解されていたのかを見ていく。これらの表現上の分析を踏まえたうえで、神戸市博本の解読を試みたい。前述のとおり先学はこれを秀吉が受け取った象であるとしてきた。その根拠はアビラ・ヒロン『日本王国記』の1597年8月の記事である。ルソン総督に派遣された船長ルイス・デ・ナバレーテ・ファハルド(?−1597)とディエゴ・デ・ソーザの二人をはじめとする一行が、大坂城を訪問したが、この時、秀吉は5歳になる秀頼の手を引いて出座し、一行が進物として連れてきた象を観ようと「座敷のはじまで近づいて行
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