― 517 ―った」という(注10)。神戸市博本の左隻の象とこれを軒先からみる親子との描写が一致することから、この親子が秀吉・秀頼に同定されてきた(注11)〔図2〕。この象のことは『鹿苑日録』や『左大史孝亮記』でも言及されており、象が秀吉に謁見したという話題が僧侶・公家の間で共有されていたことが分かる。しかし、管見の限り、日本側の史料に、秀吉が親子で象を見たという記述はない。とすると神戸市博本の描写は、当日の様子に間近に接した者の情報に基づき制作されたものと推察することができる(注12)。一方、親子の衣装や彼らがいる伽藍の様子は、実際の大坂城とはかけ離れており、事実に依拠しないことは明らかである。この伽藍の意味は4節で考えよう。また南蛮船や右隻の南蛮寺、南蛮人商人たちおよび宣教師たちは、象が秀吉に贈られた一件とどのように関わるのだろう。従来、南蛮船は、中世以来の唐船図に連なり、異郷より財宝をもたらす宝船のような吉祥画題として解釈されてきた(注13)。しかし空想的にではあれ左隻にある特定の歴史的な出来事を描きこむのであれば、これらの南蛮船も何か特定のものを意図しているのではないだろうか(注14)。ここで想起したい歴史的経緯に、前年にスペイン船と秀吉との間で起こった諍いがある。事件は慶長元年(1596)9月28日、土佐にスペイン船サン・フェリペ号が漂着したことに始まる(注15)。一同は、現地の首長である長宗我部元親(1539−99)を介し、秀吉に船の修繕許可と身柄の安全を求めたが、秀吉はこれを拒否し、積荷を没収した。その後サン・フェリペ号の乗組員は船を修繕し、1597年4月に浦戸を出港、5月にマニラにたどり着く。一連の経緯を聴取したルソン総督フランシスコ・テーリョ(?−1603)は、積荷の返還と、この一件が火種となり長崎で処刑されたフランシスコ会士の遺体の引き渡しを求めて、前述の船長ナバレーテとデ・ソーザを秀吉への大使として派遣したのだった。これが左隻に描かれた一行ということになる。この点を考慮して右隻をみると、サン・フェリペ号事件を暗示させるものが描きこまれていることに気づく。小瀬甫庵『太閤記』や『土佐軍記』には、サン・フェリペ号から没収されたものに繻子や唐木綿といった布帛類に加え、「生タル麝香」、「生タル猿」、「鸚鵡鳥」があったとするが(注16)、まさにこの3種が右隻の第四扇中央の荷揚げされた積荷の中に描かれている〔図3〕。また、前景に描かれる宣教師の一群に、茶色の衣をまとい三つの誓願を表わす腰帯を付けたフランシスコ会士が描かれていることも注目される。長崎での26人の殉教者はスペイン人、ポルトガル人、メキシコ人の6名の外国人を含むが、すべてフランシスコ会の司祭および修道士であった。このように右隻は、左隻で象とともに日本へやってきたナバレーテとデ・ソーザが
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