鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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1 .1591年の年記がある『バレト写本』の救世主像(ヴァチカン図書館バルベリーニ文庫蔵)〔図9〕2.1592年に天草で印刷された『ドチリナ・キリシタン』扉絵(東洋文庫蔵)3 .刊年および刊行地不明だが、2.と近いと考えられる『どちりいな・きりしたん』最初の紙葉の裏面にある銅版画(ヴァチカン図書館バルベリーニ文庫蔵)〔図10〕4 .1607年に長崎で刊行された『スピリツアル修行のために選びあつむるシュクワンのマニュアル』扉絵(大浦天主堂蔵)5 .Sacam Jacobusの記名と、1597年の年記のある《救世主像》(東京大学総合図書館蔵)〔図11〕3−2.救世主像の意味では、こうした救世主像は、何を意味すると考えられていたのだろうか。この点で参考となる二つの事例を見ておこう。秀吉へ象が贈られる前年、慶長元年(1596)12月13日付けの長崎からのルイス・フロイスの報告には、最近の京の政治動向に引き続き、昨年、入信した「トメ」なる一般信者が登場する。この人物は秀吉や朝廷に仕える、学識と話術の巧みな人物であるという。このトメが、ある知人の仏僧と、イエズ― 519 ―さらに油彩画で、があり、これはマールテン・デ・フォス原画、ヒエロニムス・ヴィリクス刻、テオドール・ハレ刊行の銅版画をもとにしている。坂本満氏が指摘するように、この原画を見ると、左手に手にする球体には太陽と月が描かれており、地上権力の象徴であると同時に天球を含む全世界を示していることが分かる(注18)。この5点と、神戸市博本の祭壇に掲げられた二点の救世主像を比較すると、祝福を与える右手と身体の向きという点でバレト写本中の一葉が一番近いことが分かる。国内にも伝存例がないバレト写本の一葉を、はたして内膳が眼にする機会があったかどうか、残念ながら現在のところ確実な手掛かりはなく、内膳自身とこのキリスト教図像との直接の接点は不明である(注19)。ただし、後述のように京都の南蛮寺内に安置されていたことを示す史料も散見されるため、内膳がこうしたものを眼にした可能性は高いといえる。この救世主像自体は、日本で布教が始まり、聖画制作が始まった最初期より頻繁に描かれたことが常々指摘されている(注20)。1584年の書簡でルイス・フロイスが「手に地球をもった救世主」ほかの版画原版を求めていたことも想起されよう。

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