鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
530/597

― 520 ―ス会教会堂にあった救世主像をめぐり論争をしたという。この像について仏僧は「私は汝らがデウスと呼んでいる仏を汝らの寺院で見た。そこで(デウス)は世界を手にしている」と言っており、地球を手にした救世主像であることが分かる。さらに興味深いのは、トメが、「諸画像が用いられているのは、それらによって粗野で無知な人々に対して、ある程度諸事物の真理が表わされる」為であるとし、ここで救世主像が地球を手にしているのはすべてを手中に収めるという意味で、「人間が自分の手に球をもっているのと異なることなく、(デウスは天と地を)何らの労苦なしに気に入ったとおりに用い給うている」(注21)と講釈している点である。フロイスはこの講釈に対する意見を述べてはいないが、これが当時の日本人信者の共通理解であるとすると、救世主像は全世界の支配者を表す図像であったことが分かり、これがキリスト教の教化のために使われていたことが分かる。さらに、「人が球を手にする」という比喩からは、神戸市博本の祭壇に金の丸い何かを捧げている司祭の姿や、サントリー美術館蔵本などに南蛮人の間で球のやり取りが頻出して描かれることが想起される(注22)。また京都のイエズス会教会堂にあった救世主像については、儒者・林羅山(1583−1657)も『排耶蘇』で言及している。時期は少し下るが慶長11年(1606)に羅山は京都のイエズス会教会堂を訪れ、日本人修道士の「不干氏」(不干斎ハビアン)と宗教論を戦わせ、この時、教会堂内に掲げられた「徒斯画像」「円模の地図」そして「日月行道の図」を眼にしている。「徒斯画像」のことを海老沢有道氏は「中国天主教では神、天主、デウスの画像はありえないのでキリスト像であろう」としているが(注23)、先のフロイスの報告を併せて考えても、救世主像を「デウス」と呼んでいたことによるものであろう。先述のトメが説明した像と全く同じであるかは不明だが、少なくとも慶長11年においても救世主像が安置されていたことが分かる。またここで地(球)図に言及している点も注目される。南蛮屏風のなかに世界地図が描き込まれるものが散見され、特に内膳系のものにも南極図・北極図が描きこまれているからである。以上の2つの事例から、一連の「救世主像」は、現世の支配者としての「デウス」として理解されていたこと、そしてデウスが支配する「世界」は、具体的に地球図のようなかたちで理解されていたことが分かる。また教化のために画像を用いると明言している点は、神戸市博本の左右両隻に救世主像が描かれることを考えるうえでも興味深い。右隻で救世主像は祭壇に掲げられ、この画像に対しある儀式が行われている。一方左隻では奇妙なドームの中に安置され

元のページ  ../index.html#530

このブックを見る