注⑴成澤勝嗣「狩野内膳考」『神戸市立博物館研究紀要』2,1985.塚本美加「狩野内膳と南蛮屏― 522 ―図との類似が想起されよう。実際、豊国祭礼図に描かれる南蛮風俗の人物の中で腰に手を当て着座するカピタンらしき人物とこれに傘を差しかける者、さらに円形の盾を手にして従うものという組み合わせは、神戸市博本のそれと近似していることが指摘できる〔図13〕(注27)。つまり内膳は、八幡神として、そしてキリスト教の神として、少なくとも二度、秀吉を神格化して描いたことになる。豊国祭礼図とは異なり、南蛮屏風については誰が、いつ、どのような状況で注文したのかを知る手掛かりは何もない。しかし、これはあくまでも想像の域を出るものではないが、秀吉の事跡をたどり、彼を祀るかのような描写からは、たとえば慶長15年(1610)、秀吉の十三回忌を迎え、方広寺大仏殿が再建された時などが想定できるかもしれない。内膳系南蛮屏風の構図は、左隻を例えば《玄宗皇帝・楊貴妃図屏風》(フリーア美術館)〔図14〕のような中国歴史人物図の大伽藍の描写から、そして右隻を《園城寺・日吉大社風俗図屏風》(京都・個人蔵)のような社寺参詣図の、手前に参道をあゆむ人々と店棚を大きく描き、後方に遠景として寺社を描く構図から採り、これに南蛮船を組み合わせて成立している。特に社寺参詣図については、南蛮寺が京名所として捉えられていたことを鑑みても、南蛮屏風の図様をその延長線上にとらえることは的外れではないだろう。こうした既存の図様に依拠しつつも、内膳はこれを換骨奪胎し、新たに空想的歴史画とでもいうべき画面を作り上げた。一見、異国からの富の到来を寿ぐという表層的な図像は、押し寄せるイベリア半島の勢力に対し、秀吉が権力を行使した歴史的事件を参照する極めて政治的なものであることが判明した。加えて、南蛮寺の内部に分け入り、救世主像というキリスト教図像をそこ此処に組み込むことで、支配者としての秀吉を象徴的に顕彰することに成功していた。このような内膳の独創性は、その後の南蛮屏風の展開の中で、参照点を失い、形骸化していったといえる。とはいえ、こうした風俗画に込められた政治性を作品ごとに読み解く努力が、近世初期風俗画というジャンルの分析にも欠かせないのである。風―その画風の確立と継承」『美学論究』18,2003.⑵佐久間正・会田由訳、岩生成一注『大航海時代叢書 XI アビラ・ヒロン 日本王国記 ルイス・フロイス 日欧文化比較』岩波書店,1965,272頁.⑶成澤勝嗣「王権への追憶―太閤秀吉と風俗画のあやしい関係」『講座日本美術史 第三巻 図像の意味』,東京大学出版会,2005,274−85頁.および成澤勝嗣「作品解説」『南蛮屏風集成』
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