第I期第二巻,同朋舎出版,1987,235頁.■ 成澤,前掲論文「近世初期風俗画としての南蛮屏風」,294−304頁.■ 林羅山「排耶蘇」海老沢有道校注『キリシタン書 排耶書』岩波書店,1970.■ 山根有三「岩佐又兵衞研究の問題點―豐国祭禮圖屏風と舟木本洛中洛外圖屏風を中心に」『國― 523 ―1615)と考えることも可能かもしれない。75−6頁.中央公論美術出版,2008,327頁.⑷泉万里「最初の『南蛮屏風』」『国文学』51−11,2006,82頁.⑸大阪城天守閣本、九州国立博物館A本、内膳本(神戸市立博物館本A)、笠原家旧蔵本、サントリー美術館本、南蛮文化館A本、宮内庁三の丸尚蔵館本、ギネット家本、個人蔵(K家)本、個人蔵(T家霊蓋院旧蔵)本の10点である。⑹成澤勝嗣「近世初期風俗画としての南蛮屏風―その誕生から変貌まで―」『南蛮屏風集成』中央公論美術出版,2008,303頁.⑺『南蛮屏風集成』75の個人蔵本(六曲一双)で白象が描かれている。歌舞伎者が描かれている点も興味深い。⑻磯野直秀「明治前動物渡来年表」『慶應義塾大学日吉紀要』41,2007,38頁.⑼権力者に象を贈る習慣は朝貢儀礼としてヨーロッパで確立されて長く、たとえば1514年にポルトガル王マヌエル1世はメディチ家の教皇レオ10世に白いインド象を贈っている。このときの白象はハノと名づけられ様々に描かれた。Silvio A. Bedini. The Pope's Elephant, Manchester:Carcanet, 1997.⑽前掲『日本王国記』,272−4頁.⑾この場合、この親子の左どなりの窓辺に端座するヴェールをかぶった女性は、淀君(1567−⑿『日本王国記』は石田三成(1560−1600)と前田玄以(1539−1602)が同席したとしている。前掲『日本王国記』,273頁.⒀泉万里「唐船図の継承―『大織冠図屏風』をめぐって」『フィロカリア』5,1988.⒁結城了悟「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソのこと」『長崎の空』,2003(『ロレンソ了斎―平戸の琵琶法師』長崎文献社,2005,所収)は1591年に来航したポルトガル船とするが、岡泰正「救世主の面影̶南蛮屏風の中のキリスト教図像」『歴像』122,2004,はこの場合、1593年に初来日したフランシスコ会士が描かれていることと矛盾すると指摘している。⒂事件の経緯、史料、および日付をめぐっては松田毅一「サン・フェリーペ号事件の再検討」『清泉女子大学紀要』14,1966,46頁を参照。⒃松田前掲論文、40−3頁.⒄以下の救世主像については菅野陽『日本銅版画の研究』美術出版社,1974を参照。⒅坂本満,作品解説『原色日本の美術 20 南蛮美術と洋風画』(改訂第二版)小学館,1991,⒆京・大坂で活躍した狩野派絵師というより広い文脈においては、京都のフランシスコ会に所属した、ペドロ狩野源助が、なんらかの関わり持った可能性が指摘できるだろう。Hubert CieslikS. J.「ペトロ狩野事件の資料」『キリシタン研究』14,1972.⒇坂本満,吉村元雄共著『南蛮美術』小学館,1974,98頁.■ 1596年12月13日付ルイス・フロイス報告、家入敏光訳、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』華』1311,2005,35−6頁.
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