1.はじめに松岡壽(1862−1944)は、工部美術学校の第一期生であるとともに初期渡欧洋画家のひとりで、明治美術会の発足に関わるなど明治美術史上非常に重要な画家である。一方で帰国後の彼は、海外で学んだ成果を精力的に作品に発表するというよりも、内国勧業博覧会や文展の審査員、農商省商品陳列館長を務めるなど、主に政府の教育行政に関わりつつ洋画の普及に努めた。そのため松岡に関する先行研究は、日本の洋画教育・普及の中で論じるもの、つまり工部美術学校やローマ国立美術学校における美術教育についての研究、そして後年東京高等工芸学校の開校に尽力したことから、日本における工芸デザイン史の文脈の中で語るものが多い。この論考で取り上げる歴史画に関しては、明治20年代半ばから30年代の流行期にあっても原田直次郎や山本芳翠のような作例がないため先行する研究が非常に少ない。しかし松岡が学んだ当時のローマでは、1870年の遷都以来、街の各所で官舎などが建設され、その内部には新王国を称え国民の愛国心を掻き立てるような歴史壁画が描かれた。また、イタリアでの最初の師であったチェーザレ・マッカリは高名な歴史画家であり、松岡がその影響を全く受けなかったとは考えにくい。こうした背景を踏まえ、本論文では、歴史画隆盛期から遅れて制作された大阪市中央公会堂特別室壁画を取り上げ、日本洋画の冬の時代に「国家有用の美術」を目指した松岡の歴史画観を考察するものである。2.大阪中央公会堂特別室工部美術学校開校後、わずか2年でフォンタネージの後任教師に不満を抱いた学生たちとともに同校を退学した松岡は、旧佐賀藩藩主、鍋島直大がイタリア駐在大使としてローマに赴く際の従者として留学の機会を得た。留学中の松岡に関しては、日記を仔細に考察した先行研究(注1)に詳しいが、ここでは帰国後に話を進めたい。― 528 ―㊽ 松岡壽とその周辺―日本近代洋画における歴史画についての一考察―研 究 者:岩手県立美術館 専門学芸員 盛 本 直 美それとともに、これまで研究されてこなかった松岡周辺作家による岩手県内の歴史画の作例を紹介し、中央の文化の地方伝播の諸相を知る手がかりとしたい。松岡が帰国した当時の日本では、洋画排斥運動がさかんになされており、洋画家にとっては冬の時代であった。これに対し、松岡は小山正太郎や浅井忠らとともに明治美術会を立ち上げたが、その設立趣意書には、「美術の国家に有用なること(注2)」
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