を第一義とし、美術というものは難解であってはならず、「天下の文明を助け、国利を図る助けとなるべき」とある。また同時に、「欧州の美術に学び、国内美術の振興を目指すと同時に、「国粋」の消滅は防がなければならない」としており、洋画家たちもまた西洋画の模倣から脱し、日本独自の洋画を創造しようとしたことが分かる。広く知られているとおり、日本洋画壇に起こった歴史画流行のひとつの要因は、「日本独自の洋画」という問題と、歴史画が愛国心喚起や青少年の仁孝教育の目的で描かれる側面から「国家有用の美術」という問題に対する洋画家たちの解答であった。また、同じく明治美術会創設に加わった原田直次郎は、明治20年(1887)、龍池会の講演会で、歴史画を「古今の歴史戦争神学高名なる詩文等にもとづきたる絵画(注3)」と定義し、「西洋における歴史画の優位」を公の場で初めて紹介しているが、これは歴史画を描くことによる洋画の地位向上を目指したものであろう。原田と同時期にヨーロッパの美術アカデミーで学んだ松岡もまた、同様の考えをもっていたことは想像に難くない。しかし前述の通り、この時期の松岡は官展開設に奔走したり、イタリアの学校組織や西洋画についての講演を精力的に行っており、実際に歴史主題の作品を手がけるのは、この流行が去って10年ほど経った大正6年(1917)のことである。大阪市中央公会堂は、コンペによって選ばれた岡田信一郎の図案を原案とし、公会堂建築顧問であった辰野金吾が実施設計を担当している。松岡は、親交のあった辰野の依頼により、特別室(貴賓室)の装飾を手掛けることになる。簡単にその概要を説明すると、まず天井画には、伊矛を与えられ国造りを行う《天地開玉命盞鳴尊〔図3〕、西側には仁徳天皇を主題とした作品が描かれている。素盞鳴尊は、前述の歴史画流行期には、八岐大蛇を退治した英雄神として、日本尊命とともに多く描かれた画題のひとつである。高橋由一の《日本武尊》〔図4〕には、記紀の叙述とおり、荒々しい男神の様子が表されている。浮世絵や浄瑠璃本挿絵のような芝居がかった激しいポーズの日本武尊を下から見上げた構図は劇的な効果を強調するものである。一方で原田直次郎〔図5〕の描いた素盞鳴は、背景に風景を配すなど綿密に考えられた構成により、この神話に単なる英雄譚とは一線を画した説得力をもたらしている。実際、洋画家たちは歴史画を描く際に学術的な裏づけを重視していた。山本芳翠は、国文学者、黒川真頼博士に時代考証を依頼して「十二支」連作を描き、小山正太郎は、洋画は歴史画に適しているとした上で、「服装や用具、建築など調査するのに2、3ヶ月かかる(注4)」と述べている。彼らは、詳細な調査を基礎としてモチーフや背景のスケッチを繰り返し、画面の中に再構成するという過程を経■■■■■闢■■■■■■■■邪那岐と伊邪那美が天― 529 ―■■■■■■■■■■■■■■■■■神に瓊》〔図1〕。そして北壁と南壁にはそれぞれ、素〔図2〕と太■■■■■■■■
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