― 530 ―て作品を制作している。これは、これまで主に洋画の役割としてあてがわれてきた写実性だけを利点とする考え方から脱し、芸術性や高度な知識をもつ専門的な画家像を目指したもので、このアカデミックな手法を留学中の松岡も学んでいた(注5)ことは、公会堂壁画の丹念な下絵にも明らかである。公会堂壁画のモチーフ研究に関して重要な役割を果たしたと考えられるのが、岩手県出身の画家、佐藤醇吉である。醇吉は松岡の弟子であり、中央公会堂特別室の壁画制作に助手として参加している。彼は、東京美術学校卒業後その確かな描写力をかわれ、大正元年(1912)には、出土品などの記録係として文化人類学者、鳥居龍蔵博士の古墳調査に同行、同博士の論文に挿絵を残している(注6)。醇吉がどの程度壁画制作に関わったのかなど未だ不明な点は多いが、舞台の小道具の時代考証にその経験が生かされたことは間違いないだろう。さて、「公会堂絵画説明書(注7)」によると松岡は、北南両壁に描いた素盞鳴尊と太玉命を、それぞれ商業神、工業神としており、「大阪は商工業の繁栄した土地である」ため、壁画の主題として選んだと説明している。しかし記紀を読むと、素盞鳴尊に関しては自らの髭で作った船で朝鮮に渡った(注8)という話が日本書紀に見られるものの、貿易の話やそのために商業神とみなされたことは言及されておらず、太玉命は天の岩屋戸の場面に登場するが、記紀ともに特に大きく扱われている神ではない。この文学的典拠は明らかではなく、松岡の「作者の理想を以て取捨したる所なしとせず(注9)」という言葉どおり、画家の脚色も多分にあったと考えられる。実際、松岡の素盞鳴は、「獣に立ち向かう勇者素盞鳴」とは異なった雰囲気をもっており、先行作例と比べて極端に長い髭は、髭で船を作ったという物語を強調しているようである。松岡にとっては、伝説にある荒ぶる神よりも、「商業神」としての性格づけこそが重要であったのであろう。さらに壁画図案〔図6〕を見ると、主題として採用されなかった日本神話の神々が、それぞれに「薬の神」などの書き込みとともに描かれている。このように神々を何らかの象徴や守護神とみなす考え方は、非常に西洋的といえよう。松岡は公会堂装飾において、「大阪の繁栄」をテーマに掲げ、各壁画の主題を選んだが、ひとつの空間をあるテーマのもとに統一された装飾で飾るというこの考え方は、王や注文主、その領土を讃えるために宮殿を飾った西洋の芸術家たちと同じものであり、松岡の師であったマッカリ(注10)もまた、イタリア議会の上院がおかれるマダマ宮殿やシエナのパラッツォ・プッブリコといった公共の建築物に同種の壁画を描いている。大阪中央公会堂の壁画を皮切りに、松岡は明治神宮聖徳記念絵画館(1919年着工−
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