鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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3.岩手の作家たち前項において、大正から昭和にかけて公的な依頼によって制作された歴史画連作を挙げた。ここでは、中央で制作されたそれらの作品と時を同じくして地方で生まれた、ひとつの興味深い作例をご紹介したい。明治神宮聖徳記念絵画館、東京府養正館歴史壁画を担当した洋画家たちの中に、五味清吉と佐藤醇吉という岩手出身の画家がいた。彼らは大正14年(1925)、同郷の画家たち5人とともに中尊寺懐古館陳列歴史画と呼ばれる作品を手がけているが、これは、同年4月に岩手県平泉で開催された、藤原清衡の八百年御遠忌を記念した清衡公八百年祭のために制作依頼されたものである。藤原氏全盛時代の出来事を主題にしたこの歴史画連作は、現在も中尊寺金色堂の旧覆堂にその一部が展示されている〔図8〕。旧覆堂とは、1962年に現在の鉄筋の覆堂が完成するまで、約500年間金色堂を覆っていた建物で、金色堂解体修理に伴い移転された際に、それまで保管されていた懐古館から作品が移された(注12)。以下に― 531 ―1936年完成)、東京府養正館歴史壁画(1933年企画−1942年完成)など、公的な注文による歴史絵画を次々と手がける。前者は明治天皇と昭憲皇太后を称えるために、その誕生からの事績を表した80点の作品で構成されたものであり、後者は、青少年の健全な育成を目的に計画された施設に描かれたもので、天照大御神の出現にはじまり、皇太子誕生に至る国史を描いた78点の連作であった。養生館においては、松岡自身が洋画部門の指揮をとり画題の選定に関わった(注11)が、そこでは聖徳記念絵画館作品に比べ、歴史上の人物の故事や義理人情にまつわる物語が多く採用されていることに気付く。これは各施設の建設目的の違いのせいでもあろうが、同主題の作品を比べても、前者に比べより物語性が重視されており担当画家の個性が自由に表れているといえる。実際、聖徳記念絵画館で松岡が手掛けた《兌換制度御治定の図》と比較すると、嵐に煙る甲板を走る兵士を描いた養生館の《旅順港閉塞広瀬中佐の図》〔図7〕は迫力のある大作である。松岡は、西洋アカデミズムに支えられた作画法を基礎とし、それに加えて画家の創意や想像力をもって歴史上の物語を描くことを重視していた。展覧会に出品するもののではなく、公的な注文によりそれに適した画題を選び制作する。松岡が目指したのは、職人ではなく国家国民の中に正当な位置を占める新しい専門画家像であり、そこには西洋における美術や芸術家の概念を日本に正しく伝え、それを土台としたうえで日本独自の洋画を創りだそうとする意図がみられる。歴史画とは、松岡にとってそのひとつの手段であったのではないだろうか。

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