― 532 ―その作品をあげる。佐藤醇吉(1876−1958)《平泉旧市街》〔図9〕五味清吉(1886−1954)《義経秀衡将軍対面》清水七太郎(1889−1967)《月見坂》小笠原寛三(1891−1958)《大池》、《柳の御所》吉川保正(1893−1984)《金売吉次》、《大金堂》深澤省三(1899−1992)《圓隆寺》、《毛越寺南大門》及川文吾(1895−2000)《無量光院》当時の新聞によると、「大正14年2月中旬、藤原秀衡八百年忌を記念するために、藤原三代全盛絵画館を設立することとなり、吉川保正と佐藤醇吉が平泉を訪れ、中尊寺執事と打ち合わせた(注13)」。続けて、「2月21日、五味清吉、吉川保正、小笠原寛三、佐藤醇吉が再び平泉に入り、歴史その他の参考品を公証し、構図を取りまとめ、萬鐵五郎、清水七太郎、深澤省三、及川文吾、橋本八百二、佐々木精二郎その他七光社の諸氏とともに、東京の各々のアトリエ、あるいは盛岡の共同アトリエにおいて制作にとりかかる」とある。ここに言及されている「七光社(注14)」とは、大正2年(1913)、盛岡在住若手画家と市内の県立学校生が中心として結成された「黄菊社」が2年後に改称したもので、一時は岩手において絵を描く人は全て入っているといわれたほどの規模をもち、大正期の岩手洋画壇をリードした洋画団体であった。後に結成された「北斗会」(大正12年結成、岩手県出身者を主とした在京美術家団体)会員の多くが重複しており、資料によっては、歴史画が北斗会会員に依頼されたとするものもある。また、同記事には、「八百年祭を記念するためにパノラマ館を設立する予定で和田三造氏に交渉してみた」が、経費が予想以上にかかるために取りやめたという記述がある。当時の和田三造といえば、聖徳記念絵画館をはじめ朝鮮総督府の大ホール壁画を手がけるなど、歴史画に秀でた画家として政府の重要な仕事をこなしていた。パノラマ館という発想はもちろん、その人選をみても、中尊寺絵画館の計画には東京、中央画壇の事情に詳しい人物が介在していたと考えられる。いずれにしても東京において黒田清輝や松岡壽とともに制作した経験をもつ五味や佐藤の果たした役割は大きかったであろう(注15)。さて2ヶ月後、記念祭の開幕を報じる新聞記事をみるとこの作品群が、「平泉全盛館(注16)」と名づけられた建物に展示されたことが分かる。作品を見ていくと、佐藤醇吉は、束稲山を背景にそのふもとに流れる北上川を背景に平泉旧市街を描いている。上から見下ろした俯瞰構図など養生館〔図10〕の作品と似ているが、後に描かれ
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