― 533 ―たか養生館作品のほうが全体に整理された印象である。この画家の作品はもともと少ない上に戦災で多くが失われており、現在まで残っているのはわずかに晩年を過ごした町の穏やかな風景画である。五味清吉は、はじめ岡田三郎助に師事し東京美術学校に入学した。卒業制作の《大国主命と八重垣姫》は神話を題材にした大作で、岡田譲りの華やかな人物像、楽園的な構想画に優れていた。しかし平泉で描いたのは藤原秀衡を頼って逃げてきた源義経との対面の場面を描いたもの〔図11〕である。前景に配した松の木越しに対面する二人を描いた構図はおもしろいが、2ヶ月という短い準備期間のせいか、聖徳記念絵画館や養生館の作品〔図12〕と比べ、五味本来の人物描写の巧みさはあまり発揮されていないといえよう。吉川保正は、最初洋画を学ぶが、東京美術学校入学後は彫刻科に席を置き、彫刻家として知られている。彼が担当した「金売り吉次」は、秀衡時代に奥羽の鉱山を採掘し、金銀の商いをした人で、毎年京都を往復し、都の文化や物資を平泉に移入したことに加えて、源義経を鞍馬寺から秀衡の元に連れてきた人物として知られる。実は、この10点の歴史画のうち人物が登場する作品は、義経と秀衡の対面を描いた五味作品と《金売金次》のみであり、これは前項で見た歴史画の作例と大きく違う点である〔図13〕。注文主が寺であることから、藤原三代の領主、清衡、基衡、秀衡を武人としてではなく信仰の守り主として描きたかったこと、また主題として藤原家の当主たちの個別の物語が画題に採用されていないことから、人物そのものよりも信仰の地としての平泉の土地、その豊かな都に花開いた文化をより強くアピールしたかったことがうかがえる。岩手日報の記事においても、「彌陀の信仰に極楽成佛を念じ且つ戦乱の世に殺気立っていた奥羽の民心を和らげんがために贅をつくして築きあげた金殿玉楼は当時を偲ぶこうした資料によって人々の胸に神秘の迷想を刻み、インスピレーションを与えるに十分成功している(注17)」と評価されている。「北斗会」結成時の緒言(注18)には、郷土から離れ、「急激な新文化の波の渦巻く都府」で生活している自分たちは、西欧の新興の思想と運動の劇的な流入に無関心ではいられないが、これに盲従はせず常に自己を内観する態度は失うまい、と宣言されている。まさに大正期の青年画家たちの精神といえるが、さらに彼らは、「静かに自己の内部を見つめたときに意識されるのは、郷土的な情念」に他ならないと続ける。つまり「自己内観」した結果、個人主義には陥らず郷土人としての自覚を得た、そしてそれを自己の一部として芸術に表すことで価値を見出したいと述べている。彼らにとって、郷土平泉の歴史を描くことは非常に名誉なことであったであろうし、愛郷心に裏付けられた制作であったであろう。しかし同時にそれは、新しい自己表現のひと
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