鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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4.おわりに松岡壽による歴史画の作例をみてきたが、歴史画隆盛期から遅れて制作された松岡のそれは、政府など公的機関の依頼によるものであった。松岡およびその周辺に一貫してみられる「国家有用の美術、国家有用の画家」というキーワードは、彼にとって、国民の意識や教育に寄与するというようなことではなく、より実際的なものに向かっていたようである。松岡は、美術や美術家の社会における地位向上を目指した結果、主に美術行政に関わり、最終的には図案工芸の世界へと進んだ。その著述や講演においては、再三にわたって図案の改良による国益の増大を主張し、工芸品を輸出品として世界市場に出すためには、「単に美を標準とせず、実用に適合すべき」としている。松岡は、そこに絵画制作では成し遂げられなかった、日本独自であるとともに国家の益となる芸術をみたのではないだろうか。つまり、彼にとっての「国家有用」が帰結した所は、より生活と密着し、より分かりやすく国益に直結した工芸やデザインの分野ではなかっただろうか。注⑴河上眞理、「一八八〇年代イタリア王国における美術をめぐる状況と松岡壽」、青木茂・歌田眞― 534 ―つの試みであったともいえる。また本論考では、松岡周辺の画家から岩手県における歴史画の作例を紹介したが、これらの作品群は、中央から地方への文化伝播の一側面を語るものである。同時に、仲介役であった在京郷土画家たち―東京の最新の美術思潮を一身に受けつつ、個性称揚の時代に活躍しながら、一方で独特の世界を作り出した―の果たした役割は重要であり、今回の調査を緒として今後も研究していきたい。1934年、246−53頁。介編、『松岡壽研究』、中央公論美術出版、2002年、422−63頁。など。⑵「明治美術会設立主意書(稿)」、上掲書、44−45頁。⑶「絵画改良論」、『龍池会報告』第31号、明治20年(青木繁監修、『近代美術雑誌叢書5 龍池会報告』第4巻、ゆまに書房、1991年、253頁。)⑷「洋畫と歴史畫(書畫骨董雜誌所載)」、不同舎旧友会編、『小山正太郎先生』、不同舎旧友会、⑸百武兼行の《ピエトロ・ミッカ図》の取材に同行している。太田泰人、「留学時代の松岡壽」、『松岡壽展』図録、神奈川県立近代美術館他、1989年。⑹鳥居龍蔵、「上代の日向延岡」、『鳥居龍蔵全集』第8巻、全12巻、朝日新聞社、1976年、第106図版など。⑺素盞鳴尊は天照大神ノ御弟ニシテ武勇ノ誉レ高キ神ナリ、夙ニ朝鮮ニ渡リ、日朝貿易ノ端ヲ開キ玉フ、其ノ鬚髯ヲ抜キテ、船材ヲ作リ、之ヲ以テ船舶ヲ造リテ朝鮮ノ文物ヲ輸入ス、金銀、

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