鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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フレデリック氏のトリプティック《全ては死んだ》の前に人だかりが出来ている。「なんて恐ろしい!」「ぞっとする!」「何たる殺戮!」「一体どうしたらこんなものが描けるのだ?」「それでも実に見事だ!」―これらは、この絵の前に集まった人々が漏らした感想の一部である。(...)ベルギー人画家フレデリック氏は、骨太な農民画を描くことから出発した。...その後、なぜかは不明だが、彼は変わってしまった。(...)彼はこのおぞましい絵に才能を蕩尽している。(...)《全ては死んだ》は、結局のところ、このサロンで最も見られた作品の一つである(注11)。― 542 ―フレデリックの息子ジョルジュが作成した未刊行のカタログ・レゾネ(注9)によると、「死」は1894年のパリの国民美術協会のサロンと翌1895年のブリュッセルの「自由美学」展、1897年のヴェネツィア・ビエンナーレに出品された。そして1920年のアントウェルペンのサロンにおいて、初めて7枚組のポリプティクとして公開されたのである。さて「死」は、パリの国民美術協会のサロンの目録に「Tout est mort !(全ては死んだ!)」という題名で記載されている(注10)。この作品はこの時、仏語圏はもとより、英米や独語圏のものも含めた数多くの新聞・雑誌のサロン評で取り上げられた。それらのうちの幾つかは、この作品がサロンで最も注目を集めた作品の一つであるとさえ伝えている。 この展示室に飾られている大作のうち、ある作品については意見が大いに分かれている。その作品について人々は激しく議論し、大半は、その作品の前から逃げ出す。《全ては死んだ》、レオン・フレデリック氏のトリプティクだ。実際、群衆の理解を越えた、象徴的・哲学的で、絵画的というより文学的な作品であるこれは、物書き達を大いに刺激するだろうが、そこに披露されている作者のあらん限りの才能にも拘らず、見るもおぞましい。(...)批評家達は、L. フレデリック氏の作品が重厚で、熟考され、成熟しており、完成度が高く、決して韜■屋の作品などではなく、高尚で長い忍耐によって描かれた作品である、と虚しく主張するだろう。しかし観衆はこの絵を拒絶し、忌み嫌い、その前から逃げ出すだろう。なにしろ不快な視覚的感覚しか与えないのだから。観衆にとっては、主題がどうであれ、魅力がなければ芸術ではないのである(注12)。 何人かが激しく注目を集めている。(...)レオン・フレデリック氏もその一人で、

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