鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
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(ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ以外では)レオン・フレデリック氏のトリプティクが大いに注目されている。作者が恐怖を積み重ねようと努めたこの大画面の中には、たいそう美しいものがある。(...)信仰、正義、無垢、いずれも死に絶えた。誠に印象的な悪夢である。レオン・フレデリック氏は、凡庸な色彩家かもしれないが、しかし素晴らしい素描家であって、動きの多様さや的確さ、表現の強さによって、実に印象的な効果に到達し得ている(注14)。― 543 ―彼は「全ては死んだ!」と題された巨大なトリプティクにおいて、雨霰と降る岩に押し潰され、血を流す無数の死体を積み上げた。(...)この奇妙な絵は、その恐ろしさにより、本展覧会で大評判となった作品の一つである。(...)死の思想は、こうした縺れ合う死体の山、赤ヒレ肉をかけた人肉のサラダなどより、ただ一人の人物像で表現するほうが効果的だと思われる。この作品は、作者独特の緻密で乾いたタッチで描かれている。この絵は正確な現実性を持つが、それはここで表現されようとしている象徴的な悪夢とは相容れない。この絵は、構想の恐ろしさで人の目を引きこそすれ、長くはそれを引き止めておけない(注13)。この作品が観衆の注目を大いに集めたことは確かである。しかし、評価となると、最後に引用したような好意的なものは少数派であった。その最大の理由は、むろん余りに陰惨な主題だろう。フレデリックは1890年以降、毎年このサロンに参加し、少女の肖像や、子どもの登場する寓意的・宗教的主題の作品を出品してきた(注15)。それらと比べ、この作品の内容は、いかにも唐突で奇異に見えたに違いない。批評の中には、画家がこの作品で「才能を浪費している」という意見も散見されるが、そこには、写実の才を《チョーク売り》のような社会的テーマにこそ発揮するべきだ、というニュアンスが感じられる(注16)。とはいえ多くの批評家が、この絵を微に入り細を穿ち描写しており、それを楽しんでいるようにさえ見える(注17)。ここで興味深いのは、批評家達が、上記の引用にも見られるように、この作品を否定的に語る際にしばしば食べ物の比喩を使っていることだ。例えばノルマンディー地方の内臓料理「カーン風トリップ」をもじって「カーン風トリプティク」と評したり(注18)、血まみれの死体の積み重なりをトマトソースのマカロニに喩えたりと、その表現は実に多彩である(注19)。あるカリカチュア誌に掲載された諷刺画は、そうした見方の代表と言えよう〔図6〕。「CHARCUTERIE(ハム・ソーセージ類)」という言葉がソーセージの花飾りの間に掲げられ、下部には

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