鹿島美術研究 年報第27号別冊(2010)
554/597

4.展覧会での評価 ―1920年1920年、本作品はアントウェルペンのサロンに出品された。ベルギーで最後に公開されてから25年ぶりのことである。「目覚め」と「復活」を備えた現在の形としては、これが西欧での最初で最後の公開となった。この作品は、25年前と同様、会場で最も注目を浴びた出品作の一つであったようだ(注22)。悪趣味だ、初期フランドル派の影響が強すぎるといった批判を受ける一方で(注23)、筆者が確認し得た範囲では、かつて「死」のみを展示した時よりも好意的に受けとめられている。そしてそれは、この展覧会が、ベルギーにおける第一次大戦後初のサロンであったという事情と無関係ではないだろう。 このサロンは、祖国の再興のため、あらゆる傾向を紹介し、あらゆる努力の成果を集め、まさにあらゆる芸術家を招集した。この再生の思想は、本展覧会で他を圧倒― 544 ―「全て死んだ!」、更にその下の枠外には「ミンチ肉」というキャプションがある。画面下部には数多くの臀部が認められるが、あとは不分明な線の集積である。こうした食べ物との関連づけは、血まみれの死体の山を描いたこの作品の余りのグロテスクさ、過剰さ(この過剰さはしばしばフランドルの伝統と結びつけられた)に、評者達が生理的な嫌悪感や、時にはそれを通り越して滑稽な印象を抱いたことを物語っている。さて、パリの翌年、この作品はブリュッセルの自由美学展に出品された。しかし画家の母国においても、その評価は概ねパリのものと同様であった。ここでは、少数派の好意的な意見を引用しておこう。 レオン・フレデリック氏の成果であるトリプティク《全ては死んだ》について、我々には、これが彼の芸術の究極の表現というより、未来の、更に偉大な到達点を予告するものと感じられる。それでもこれは素晴らしい絵で、力強い素描と肉付けに満ち、恐怖の演出をより誇張することもできただろうが、過度に強調されてはいない。この作品は、まさに真の芸術家によるものだ(注20)。なお、筆者は「彫刻家」というこの匿名の評者が、フレデリックの友人ジェフ・ランボーではないかと考えている。彼は1895年3月3日付のフレデリック宛の手紙で本作品を絶賛しているからである(注21)。

元のページ  ../index.html#554

このブックを見る